北本市史 通史編 古代・中世

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第4章 鎌倉幕府と北本周辺

第1節 治承・寿永の内覧と武蔵武士

野木宮合戦と源範頼
寿永二年(一一八三)、常陸国信太庄を本拠とし南常陸に独自の勢力圏を保持していた志田義広(源為義の子)は、所領問題を通じて頼朝と対立した北関東の雄である。藤姓足利氏と小山氏らを誘って鎌倉の源頼朝に対抗し、関東に覇を唱えんとした。義広は常陸・下野両国の武士の多くを傘下に入れ、総勢三万騎と称する軍を率いて、小山氏と合流すべく下野国小山荘へと進軍した。小山氏は当主政光が在京中で、無勢の嫡子小山朝政が、偽って義広に同意の旨を伝えたが、進路に当たる同国野木宮に待伏せの兵を配した。朝政は志田軍を奇襲し、激戦の中、朝政の弟宗政が鎌倉から救援に駆け付け、ようやく小山氏が勝利した。これが野木宮合戦である。この合戦に小山朝政が勝利したことで志田義広が没落し、義広は甥である信濃の木曽義仲を頼ることになり、北関東に頼朝の権力が浸透する。ここに新たに、頼朝と義仲の対立がクロ—ズアップしてくる。なお、この野木宮合戦の年次について、鎌倉期の基本史料とされる『吾妻鏡』(古代・中世No.五六)は、養和元年(一一八一)閏二月のこととしているが、石井進の研究により、寿永二年のことと実証されている。
この合戦で小山朝政に味方した諸氏の最後に、「蒲冠者範頼同じく馳せ来らる所なり」と見える。これは頼朝の異母弟で義朝の六男範頼の『吾妻鏡』での初見記事であり、かつ範頼が志田義広・足利忠綱連合軍攻めに参加したとある。蒲冠者伝承を残す北本としては関心の寄せられる記述である。ところが範頼の前半生は義経以上に闇に包まれ、母が遠江国池田宿(静岡県豊田町)の遊女で、「蒲(生)冠者」と呼ばれたように同国蒲御厨(同県浜松市)に生れ、京の公家高倉範季の子として養育されたとされる。比企郡吉見町では、範頼が幼年時代に黒岩の安楽寺で稚児僧として成長したとか、御所の息障院が範頼の館跡であった等の、幾多の範頼関係の伝承が近世に記録されている。
また市域の石戸宿の堀ノ内館跡が彼の館であると伝え、範頼が同地で自害し、蒲桜が手植えの樹であり、東光寺が彼の娘亀御前追福のため創建された(『新記』)など、市域でも範頼関係の伝承が多数記録されている。これは範頼の正室が安達盛長の娘とされていることに関係していよう。
しかし、これらの伝承はいずれも史実性に乏しいので、範頼が前半生から当地に関係していた可能性は確言できないが、市域に関係し、市民の関心が高い中世の注目すべき人物の一人であることは疑いない。

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