北本市史 通史編 古代・中世

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第4章 鎌倉幕府と北本周辺

第1節 治承・寿永の内覧と武蔵武士

範頼の死と蒲桜伝承

写真20 源範頼の墓 静岡県修善寺

文治元年(一一八五)、平氏を滅ぼした二人の大将軍、範頼と義経は以後その歩みを異にする。義経は前述のとおり奥州平泉の衣川館で藤原泰衡の軍勢に襲われて自害した。しかし、源範頼は鎌倉へ戻り、前年に任じられた三河守として浜の宿館といわれる邸宅に住み頼朝に仕えていた。しかし、範頼に対する頼朝の扱いは平家追討時とは大きく異なり一般御家人と大差はなかった。『吾妻鏡』にみられる範頼の名は、文治五年七月十九日条の奥州藤原氏攻略のための軍勢の中や(古代・中世No.六六)、建久元年(一一九〇)十一月七日条の頼朝入京に当たっての行列の中にみられる(古代・中世No.六七)程度になる。この上洛で頼朝は権大納言・右近衛大将に任じられたが、まもなく辞任し、以後「前右近衛大将家(右大将家)」と称されるようになる。なお、頼朝は後白河院死後の建久三年七月、ついに征夷大将軍に任ぜられ念願を果たした。これは、一面において源家一族内の武家棟梁の座をめぐる抗争での頼朝の勝利を示すものであった。木曽義仲・ 一条忠頼・源義経は敗者であり、やがてそれは範頼の身辺にも及んでくる。
この範頼について、『吾妻鏡』に大きく取り上げられているのが建久四年(一一九三)八月十七日条の反逆の疑いにより伊豆へ流された記事である(古代・中世No.六九)。範頼失脚の伏線となった事件は二つ考えられる。一つは家臣の当麻太郎が頼朝の寝所の床下に潜んでいるところを捕らえられた事件であり、もう一つは同年五月二十七日の富士の巻狩りの夜に起こった曽我兄弟仇討事件に際しての範頼の発言であった。この時、範頼は頼朝が討たれたとの知らせに悲しむ北条政子に対し「範頼左テ候へバ、御代ハ何事カ候ベキ」(古代・中世No.七〇)と慰めたことが、後日無事に帰還した頼朝の耳に入り彼を激怒させたという。源範頼は頼朝の怒りを恐れ起請文を呈したが、今度は、その起請文に源範頼と源姓を用いたことを咎(とが)められた。範頼は家臣を送り陳謝弁明したが許されず、ついには伊豆に流された。以後『吾妻鏡』に範頼の名は登場しない。翌二十八日には範頼の家臣が浜の宿館で交戦準備をしたため、梶原景時らによって討たれている。

図5 『玄同放言』にみる蒲桜

(国立公文書館内閣文庫蔵)

図6 『玄同放言』にみる範頼石塔

(国立公文書館内閣文庫蔵)

範頼が伊豆に流されたのは、頼朝が自分に万一のことがあった場合、範頼が後継者になることを恐れたためと思われる。事実その翌三年には、甲斐源氏の遠江守安田義定も誅殺され、頼朝に対抗し得る源氏一族は相次いで滅ぼされた。
さて、範頼のその後であるが、『保暦間記』によれば八月中に殺害されたことになっている。しかし殺害された場所についての記述がなく、いくつかの説がある。その中でも最も有力なのが伊豆修禅寺(静岡県修善寺町)自刃説である。
修禅寺(信功院)に幽閉された範頼に対し、八月二十四日幕府の討手が襲い、交戦の末に自刃したとされる。修禅寺には範頼の位牌も残されており、また付近の高台には範頼の墓(写真20参照)もある。
続いては太寧寺(神奈川県横浜市)自刃説である。修禅寺を逃れた範頼主従は、鎌倉の頼朝の誤解を解くべく、ほど近い榎戸へ上陸したが、再び幕府の討手をうけ、ついに太寧寺で自刃したというもので、現在移転した太寧寺には範頼の位牌や薙刀・画像・自筆の古歌等があり、境内には範頼の墓もある。
三番目は、愛媛県伊予市にある範頼の墓で、地元の河野氏を頼って逃れた範頼がそこで没したとされるものである。
最後が市域石戸宿堀ノ内説である。ここには、鎌倉時代に遡(さかのぼ)る堀ノ内館跡(本章第二節参照)があり、この館は土地の伝承ではその地名から『吾妻鏡』寛元三年(一ニ四五)八月十六日条に見える石戸左衛門尉(古代・中世No.一〇一)とも、源範頼の館とも伝えている。また、館内の『日本五大桜』の一つに挙げられる蒲桜は蒲冠者範頼の「蒲」からきているともされており、そのため蒲桜の範頼手植説や墓標説、杖立説等を生んでいる。
この蒲桜伝説については江戸時代後期の地誌である『新記』の記事、および幕末に活躍した小説家滝沢馬琴の著した『玄同放言』(挿(さし)絵は幕末の洋画家渡辺舉山)に詳しい(近世No.ニ一七)。
なお、この蒲桜の根元には、範頼伝承をもつ凝灰岩製の石塔がある。中世に属する凝灰岩の石塔は市域のみならず、大宮台地上にも例がなく、県内では鎌倉幕府を代・する御家人の畠山重忠の墓ほか数例を数えるのみの逸品である。


写真21 安達盛長坐像

鴻巣市放光寺蔵(埼玉県立博物館提供)

また、市内には安達盛長の娘とも、石戸頼兼の娘ともいわれる範頼の妻亀御前の墓とされるものが高尾阿弥陀堂にある。平成四年から五年にかけて、この阿弥陀堂付近から前述の石戸宿堀ノ内館に関わる「箱薬研堀」の二重の堀跡が確認されている。内堀跡等から出土した鎌倉時代に遡る中国製の青磁片や宋銭などから、その館の主が注目されている(本編第七章第一節参照)。さらに桶川市川田谷の普門寺には、かって寺宝として源範頼の觸髏(どくろ)が伝えられていたという(『新記』)。また、伝安達盛長居館跡(鴻巣市糠田)や足立遠元館跡と伝承のある三ツ木城(桶川市川田谷)、範頼の館跡とされる息障院(吉見町御所)にも近く、あながち伝承だけでは終わらせたくない気にもなる。
しかしながら、文献上、伊豆を逃れた範頼が当地に隠れ住んだという記述はなく、あくまでも伝承の域をでない。範頼が史料に現れる以前の時期を、吉見町安楽寺で過ごしたとされることなどから、これらの伝承は生まれたものと考えられる。なお範頼の子孫については『尊卑分脈』の「吉見氏系図」(古代・中世P四五七参照)によれば、安達藤九郎盛長女(むすめ)を母とする範円と源昭の二人の子があって、いずれも僧侶となっており、範円の子為頼が、母方の所領を相伝して吉見氏を名乗ったという。

【北本さんぽでの紹介】

北本さんぽ第41回 北本市と源範頼(みなもとの のりより)


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