北本市史 通史編 古代・中世
第4章 鎌倉幕府と北本周辺
第1節 治承・寿永の内覧と武蔵武士
範頼の死と蒲桜伝承写真20 源範頼の墓 静岡県修善寺
この範頼について、『吾妻鏡』に大きく取り上げられているのが建久四年(一一九三)八月十七日条の反逆の疑いにより伊豆へ流された記事である(古代・中世No.六九)。範頼失脚の伏線となった事件は二つ考えられる。一つは家臣の当麻太郎が頼朝の寝所の床下に潜んでいるところを捕らえられた事件であり、もう一つは同年五月二十七日の富士の巻狩りの夜に起こった曽我兄弟仇討事件に際しての範頼の発言であった。この時、範頼は頼朝が討たれたとの知らせに悲しむ北条政子に対し「範頼左テ候へバ、御代ハ何事カ候ベキ」(古代・中世No.七〇)と慰めたことが、後日無事に帰還した頼朝の耳に入り彼を激怒させたという。源範頼は頼朝の怒りを恐れ起請文を呈したが、今度は、その起請文に源範頼と源姓を用いたことを咎(とが)められた。範頼は家臣を送り陳謝弁明したが許されず、ついには伊豆に流された。以後『吾妻鏡』に範頼の名は登場しない。翌二十八日には範頼の家臣が浜の宿館で交戦準備をしたため、梶原景時らによって討たれている。
図5 『玄同放言』にみる蒲桜
(国立公文書館内閣文庫蔵)
図6 『玄同放言』にみる範頼石塔
(国立公文書館内閣文庫蔵)
さて、範頼のその後であるが、『保暦間記』によれば八月中に殺害されたことになっている。しかし殺害された場所についての記述がなく、いくつかの説がある。その中でも最も有力なのが伊豆修禅寺(静岡県修善寺町)自刃説である。
修禅寺(信功院)に幽閉された範頼に対し、八月二十四日幕府の討手が襲い、交戦の末に自刃したとされる。修禅寺には範頼の位牌も残されており、また付近の高台には範頼の墓(写真20参照)もある。
続いては太寧寺(神奈川県横浜市)自刃説である。修禅寺を逃れた範頼主従は、鎌倉の頼朝の誤解を解くべく、ほど近い榎戸へ上陸したが、再び幕府の討手をうけ、ついに太寧寺で自刃したというもので、現在移転した太寧寺には範頼の位牌や薙刀・画像・自筆の古歌等があり、境内には範頼の墓もある。
三番目は、愛媛県伊予市にある範頼の墓で、地元の河野氏を頼って逃れた範頼がそこで没したとされるものである。
最後が市域石戸宿堀ノ内説である。ここには、鎌倉時代に遡(さかのぼ)る堀ノ内館跡(本章第二節参照)があり、この館は土地の伝承ではその地名から『吾妻鏡』寛元三年(一ニ四五)八月十六日条に見える石戸左衛門尉(古代・中世No.一〇一)とも、源範頼の館とも伝えている。また、館内の『日本五大桜』の一つに挙げられる蒲桜は蒲冠者範頼の「蒲」からきているともされており、そのため蒲桜の範頼手植説や墓標説、杖立説等を生んでいる。
この蒲桜伝説については江戸時代後期の地誌である『新記』の記事、および幕末に活躍した小説家滝沢馬琴の著した『玄同放言』(挿(さし)絵は幕末の洋画家渡辺舉山)に詳しい(近世No.ニ一七)。
なお、この蒲桜の根元には、範頼伝承をもつ凝灰岩製の石塔がある。中世に属する凝灰岩の石塔は市域のみならず、大宮台地上にも例がなく、県内では鎌倉幕府を代・する御家人の畠山重忠の墓ほか数例を数えるのみの逸品である。
写真21 安達盛長坐像
鴻巣市放光寺蔵(埼玉県立博物館提供)
しかしながら、文献上、伊豆を逃れた範頼が当地に隠れ住んだという記述はなく、あくまでも伝承の域をでない。範頼が史料に現れる以前の時期を、吉見町安楽寺で過ごしたとされることなどから、これらの伝承は生まれたものと考えられる。なお範頼の子孫については『尊卑分脈』の「吉見氏系図」(古代・中世P四五七参照)によれば、安達藤九郎盛長女(むすめ)を母とする範円と源昭の二人の子があって、いずれも僧侶となっており、範円の子為頼が、母方の所領を相伝して吉見氏を名乗ったという。
【北本さんぽでの紹介】
北本さんぽ第41回 北本市と源範頼(みなもとの のりより)