北本市史 通史編 古代・中世

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第4章 鎌倉幕府と北本周辺

第2節 幕府政治と御家人

足立・安達氏の出自と活躍
西国において、武蔵武士ら東国武士が平氏と激しい戦いを続けていたころ、鎌倉では頼朝を中心に幕府の土台が整備されていった。元暦元年(一一八四)十月六日、公文所(くもんじょ)(後の政所(まんどころ))が開設され、次いで二十日には、問注所(もんちゅうじょ)も設置され、すでに設けられていた御家人統率機関である侍所(さむらいどころ)を合わせ、幕府の中央三機関がそろった。公文所は当時の摂政以下の貴族の家政機関を模倣したもので、一般政務を掌(つかさど)る役所であった。ここには長官の別当(べつとう)一人と、寄人(よりうど)六人が任命された。別当には大江広元(おおえのひろもと)が京から招かれて任命された。広元は、京都政権において下級官人の経歴があり、このほかにも行政実務能力に秀でた京下り官人と称された人物が、多く寄人に任命された。その中で関東武士として、ただ一人、足立遠元が寄人となった。
遠元が行政実務能力を必要とする公文所寄人に任命されたのは、頼朝の信頼が厚かった面もあるが、武蔵国の有力武士を代表するとともに、彼の縁に繋(つな)がる大江広元・中原親能の結び付きに期待するの意味合いもあった。
足立氏の出自については、『丹波志』および「足立系譜」では藤原氏の後裔(こうえい)とし、「足立氏系図」では藤原北家の勧修寺流(かじゅうじ)、『尊卑分脈』では藤原北家魚名(うおな)流とするなど、藤原氏とする点では共通しているが確証はない。足立遠元(遠基)の系譜を比較すると次の図7のようになるが、遠元の祖父の名が違い、また盛長(守長)が一方では遠元の叔父、一方では遠元の子として記されるなど、その信憑性は乏しい。
姓氏研究家太田亮は、足立氏が足立郡司職を継承していることから、武蔵豪族武蔵氏の後裔と考えているが、妥当な見解であろう。ただし、藤姓を称するようになったのは、後述のように遠元の娘が御白河院近臣の藤原光能に嫁したからであろう。
なお、前述の系図に、源頼朝の近臣で後に北条氏と婚姻関係を結び鎌倉幕府の有力御家人となった安達氏の祖盛長(守長)の名が見えることから、足立氏と安達氏を同族とする説もあるが、盛長が安達氏を称するのは晩年のことであり、『吾妻鏡』などからはこの両者を同族とする根拠は見られない。『尊卑分脈』では盛長は藤原北家魚名流の系譜を引き、小野田三郎兼広の子安達六郎と名乗ったとする。盛長の弟は安達藤九郎遠兼、その子を遠基(遠元)とする。盛長が六郎と名乗らず、藤九郎であったことは『吾妻鏡』の記述からも明らかである。盛長が藤原氏の出であることは認めることにしても、『尊卑分脈』の項は信頼できない。いずれにしろ出自ははっきりしない。足立氏と同様とすれば武蔵武士の可能性はある。

図7 足立氏系図

写真22 源頼朝の墓     神奈川県鎌倉市

写真23 鶴岡八幡宮     神奈川県鎌倉市


足立氏が足立郡司職を継承した時期については明らかでないが系図などによると、遠元の父遠兼の尻付(しつけ)に「武蔵国足立住」(「足立氏系図」)、「足立領家職本主」(『丹波志』)、「武蔵足立郡領主職」(「足立系譜」)とあり、遠元には「足立と号す、足立郡地頭職、仍て一円を領す」(『丹波志』)、「号足立、母豊島像仗泰家女、外祖父泰家讓与足立郡地頭職、仍一円知行」(「足立氏系図」)とあって、これらの系図をそのまま信用することはできないとしても、遅くとも平安末ごろ、父遠兼の代には足立郡司職を継承していたとみてよいであろう。
足立遠元が歴史の舞台に登場するのは、前述のように平治元年(一一五九)十二月京都で起こった平治の乱からである。そのころ遠元は南関東に勢力を張った源義朝に従っていた。『平治物語』によれば、義朝に従って在京していた遠元は、同年十二月十日の除目で右馬允(うまのじょう)に任じられている。当時の例では院の武者所に祇候((しこう)した者に右馬允を任じられる例が多く、遠元も後白河院の武者所であった可能性が高い。平治の乱では義朝の子義平に従って活躍した。平治の乱に敗れた後、遠元は故郷に逼塞(ひっそく)し、足立郡は武蔵国守である平家に没収され不遇の時代を送った。
やがて、治承四年(一一八〇)、以仁王令旨を奉じて、義朝の子、頼朝が挙兵すると同四年十月二日、武蔵国へ入国して来た頼朝の陣へ、武蔵武士として最初に参向し(古代・中世No.五〇)、この六日後に郡司職の安堵を受けた。これは頼朝旗下の武士で、『吾妻鏡』に見られる最初の行賞記事で、いかに頼朝が遠元に期待し、信頼していたかを示すものである。史料に見られる「領掌する郡郷のこと」(古代・中世No.五三)とは、これより三日前の十月五日に、頼朝が武蔵支配について在庁官人・諸郡司等による従来の国衙支配機構を通じて行う旨を述べているので、当然ながら足立郡の郡機構支配権を指すことになろう。
奥州平定の翌年、建久(けんきゅう)元年(一一九〇)十一月、鎌倉殿源頼朝は、全国支配の構想が軌道に乗ったことを背景に、京の公家政権と政治交渉を行うため多数の東国御家人(ごけにん)をしたがえて入京し、京都の人々に強烈な印象を与えた。この時頼朝は権大納言(ごんだいなごん)・右近衛大将(うこんえのたいしょう)に任官されたがまもなくこれを辞し、征夷大将軍を望んだが果たせなかった。この入洛の行列に、畠山重忠を先陣として、源範頼・足立遠元•安達盛長ら前後一〇〇名を越える随兵が従っていたが、それには武蔵武士が最大多数を占めていた(古代・中世 No.六七)。この上洛中、関東御家人一〇名が特に選ばれて任官の名誉に浴したが、その中に武蔵武士としては比企能員(ひきよしかず)と足立遠元が入っており、遠元は左衛門尉に任官した(古代・中世No.六八)。
さて、『尊卑分脈』(そんぴぶんみゃく)に遠元(遠基)の叔父として記載のある安達盛長(もりなが)は、伊豆国流人(るにん)時代から頼朝に近侍していた功臣であった。盛長の妻は頼朝乳母の比企尼(ひきのあま)の長女であり、盛長の館跡は鴻巣市糠田(ぬかた)にあったと伝承されているが、実際に居住したか否かは不明である。彼の基盤はむしろ上野にあった。治承四年(一一八〇)十二月、頼朝の命で上野の新田義重を誘引したが、その縁であろうか。元暦元年(一一八四)七月ごろから、上野国奉行人となり、その職は子の景盛に世襲された。一方、遠元の娘は、内乱以前に後白河院の近臣である藤原光能の妻となっていた(『尊卑分脈』)。この光能の姉妹が以仁王の妻でもあった関係上、内乱以前から遠元は頼朝にとって京に通ずる「日者(ひごろ)労有る」人物であった。従って、頼朝が遠元を公文所寄人(くもんじょよりうど)に補任(ぶにん)したのは、遠元が京の事情にも通じた最も信頼できる武蔵武士であっただけでなく、遠元を最大の軍事力である武蔵武士の代表とみて、彼らの要求を踏まえた政治を行い東国支配を確実に進めようとするねらいがあったと思われる。
遠元は、翌文治(ぶんじ)元年(一一八五)四月十三日、武蔵国威光寺領の押領(おうりょう)一件で、公文所寄人として鎌倉殿の下知(げち)に連署するなど、その活躍のほどを見せた。また、平氏滅亡後の同年十月二十四日に行われた勝長寿院(義朝追福のため建立)の落慶供養の行列で、遠元は頼朝の直後に位置した布衣衆(ほいしゅう)の一人として列し、畠山重忠以下の武蔵武士より一段と高い序列に位置し、幕府「宿老(しゅくろう)」(『吾妻鏡』文治二年十二月一日条)の一人として重きをなしていた。建久六年(一一九五)、再度の上洛をした頼朝に伴われ、平氏出身の高僧忠快(ちゅうかい)が鎌倉に下向した時、幕府創立最大の功臣相模国の豪族三浦義澄(みうらよしかず)の求めにより、忠快が三浦氏の本拠である三浦半島に赴いたことがあった。その忠快が『阿娑縛抄(あさばしょう)』三魔地(ざんまち)次第奥書に、「建久九年二月廿七日、武州足立郡においてこれを記す」と、記しているので、義澄と同様に遠元も忠快に足立郡への来訪を要請した結果が、この奥書となったのであろうか。いずれにせよ遠元の幕府内における地位の高さを窺わせる史料といえよう。

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