北本市史 通史編 古代・中世

全般 >> 北本市史 >> 通史編 >> 古代・中世

第5章 関東府の支配と北本

第3節 関東府の滅亡と古河公方の成立

関東公方足利持氏と吉見範直
禅秀(ぜんしゅう)の乱後、持氏がまず行ったことは、禅秀に味方した武士らの討伐であった。応永二十四年(一四一七)五月、持氏は上野(こうずけ)の岩松満純(いわまつみつずみ)の討伐を開始した。満純は禅秀の女婿にあたる人物であり、乱後再び反持氏を旗じるしに挙兵していた。持氏はさっそく上野(こうずけ)国出身の舞木宮内丞(まいきくないのじょう)を派遣し、これを捕らえることに成功した。
ついで同年四月持氏は武州南一揆に命じ、新田氏や岩松氏の与党を討伐させ、五月には一色左近将監(いっしきさこんしょうげん)に命じて上総国本一揆(かずさのくにほんいっき)を討たせている。上総国は上杉禅秀が守護であった国であり、反持氏勢力が多く残存していたところであった。結局翌年五月、持氏より派遣された木戸氏によって、本一揆の大将榛谷重氏を召捕らえて鎮圧した。
応永二十八年(一四ニー)八月、甲斐国の守護家武田氏(たけだし)に叛逆の噂がたった。持氏はただちに吉見範直(のりなお)を使者として武田信長のもとに派遣し、ことの是非を問いたださせたところ、その意志なしとの確約を得た範直は、使者の役目を終え鎌倉に戻った(古代・中世No一五五)。当時の武田氏は、守護職をめぐり、幕府の支持を受けた信長派と、持氏の支援をうけた武田氏一族逸見(へんみ)氏との間で対立状態にあった。甲斐(かい)国は関東府の管轄下の国であったので、持氏は吉見範直を派遣したわけである。
さらに同三十年には、常陸で小栗満重(おぐりみつしげ)の反乱が起きた。小栗氏は禅秀の乱のさい禅秀方となったものであり、禅秀敗死後持氏に降伏したが、そのさい所領所職を没収されたことを怨(うら)み、同二十九年六月ごろ反持氏をかかげて挙兵した。持氏は反対勢力のひろがりを押さえるためただちに出陣し、上杉憲実(のりざね)や吉見範直らにも出陣を命じた結果、八月    には満重を討伐し、ついで小栗氏に味方して挙兵した宇都宮持綱(もちつな)・佐々木基清(もときよ)・桃井宣義(のぶよし)らをも追討し鎌倉に帰還した(古代・中世No一五六、「別府文書」)。この結果、反持氏勢力の動きは封じ込められ、一応関東府内の混乱は鎮静化に向った。

写真38 鎌倉大日記

(国立公文書館内閣文庫蔵)

武田氏や小栗氏との紛争の際、持氏に派遣された吉見範直は、「吉見氏系図」(古代・中世No四五九)によれば、源範頼の子孫で頼継(よりつぐ)の子にあたっている。また「浅羽本吉見氏系図」(水戸彰考館(しょうこうかん)所蔵)によれば、頼継の子であることは同じであるが、「武州吉見祖」の注があり、これ以降武蔵で活躍する吉見氏の祖となった人物であったとされている。また諸系図によれば、範直の通称は「又三郎」であり、吉見氏の惣領(そうりょう)はだいたいが「三郎」を名乗る場合が多いことから、範直もまた吉見氏の惣領であったのであろう。
また、この当時範直と同様持氏により派遣された人物を見ると、一色氏・木戸氏・二階堂氏など、そのいずれもが持氏の近臣と思われる者たちばかりであることから、範直も彼らと同様持氏の近臣であったと思われる。
持氏期の関東府の政治体制は、前代と同様に公方中心となってはいたが、実際には関東管領職を独占していた上杉氏、なかでも山内上杉氏の勢力が強く、公方独自の権力公使は行いがたかった。応永(おうえい)二十五年(一四一八)に関東管領上杉憲基が死去し、そのあとを幼少の憲実が継いだが、この時を持氏は公方権力強化をはかる好機と捉(とら)え、強化を目的とする積極的な政策を打出した。まず第一は禅秀に味方した者たちばかりでなく、関東扶持衆(ふちしゅう)と呼ばれている者たちなど、持氏の反対勢力と思われる人々の追討であった。第二は、関東府の政治機構の改革にともなう人事の改変であり、相模国守護を三浦氏より上杉定頼に、上総国守護も宇都宮氏より上杉定頼に任ずるのみならず、奉行人を持氏の直轄とし、すべてではないが関東管領を介さずに政策遂行ができるようにした。このような持氏による性急な公方専制化への政治行動は、とくに幕府直属の関東扶持衆の追討に至って幕府を強く刺激するとともに、山内上杉氏との対立をさらに深めることにもなった。

<< 前のページに戻る