北本市史 通史編 古代・中世

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第5章 関東府の支配と北本

第3節 関東府の滅亡と古河公方の成立

結城合戦と国人衆
永享の乱以後の関東は、政治運営の指導者であった足利持氏がいなくなり、関東菅領上杉憲実も乱終息直後に出家していたことから、政情不安定な状況に陥(おちい)っていた。将軍足利義教は、この状況を打開するためみずからが関東の政治運営に乗出し、山内上杉憲忠と扇谷(おうぎがやつ)上杉持朝の両人を通して、政治体制の立直しをはかるとともに、社会的混乱の回復に努めた。
永享十二年(一四四〇)正月には、持氏与党の反乱の噂があり、三月には持氏の遣児安王丸・春王丸らが常陸(ひたち)の木所(きどころ)城(茨城県西茨城郡岩瀬町)に挙兵し、同月二十一日には結城氏朝(ゆうきうじとも)の結城城(茨城県結城市)に入った。
持氏の遣児らの挙兵の知らせを受けた幕府は、伊豆に隠退していた上杉憲実(当時は出家し、長棟(ちょうとう)と号していた)に出陣を命令した。憲実は四月六日に伊豆を出発し、鎌倉ついで長尾郷(横浜市戸塚区)をへて神奈川(横浜市神奈川区)に着陣した(『鎌倉大草紙』)。
この間実質的な指揮をとっていた上杉清方は、一族庁鼻和(こばなわ)上杉性順(せいじゅん)(上杉憲信)と長尾景仲に出陣を命じた。両者は二手にわかれ鎌倉を出発し、性順は苦林(にがばやし)(入間郡毛呂山町)に、景仲は入間川(狭山市)に着陣した。
七月には結城方の一色伊予守が武州北一揆を味方として利根川を越え、須賀土佐入道の宿城(しゅくしろ)(行田市)を攻略し、ついで村岡河原(熊谷市)まで進出してきた。そこで性順と景仲らは、同所にて一色軍と合戦しこれを破った。このさい岩村(岩槻市)にいた扇谷上杉持朝は援軍を出したが、一色軍が敗退したあとだったので引き返させたという(『鎌倉大草氏』)。当時すでに扇谷上杉氏と岩村とが何らかの関係にあったことが推測できて注目される記事である。

写真39 結城合戦絵詞

(大阪府細見家蔵 与野市市史編さん室提供)

一方憲実は、千葉胤直(たねなお)や武州一揆、小笠原政康(まさやす)や斯波持種(しばもちたね)らを率いて出発し、武蔵の野本(のもと)(東松山市)、ついで唐古(からこ)(東松山市)に到着した。憲実らは村岡河原での勝利の余勢をかって、同月末には小山の祇園城(ぎおんじょう)に入り、結城城攻略にとりかかった。しかし、結城氏側の十分な備えと同氏に味方する者たちの相つぐ蜂起(ほうき)などもあって、なかなか進展しなかった。
同年十二月には、幕府と上杉軍などで結城城攻略をめぐる意見調整が行われたが、なかなかまとまらなかった。ゆきづまっていた結城城の攻略も、合戦の長期化をきらった幕府の肩入れもあって、全軍による繰返しの攻撃を行った結果、翌嘉吉(かきつ)元年(一四四一)四月十六日にようやく落城させることに成功した(『鎌倉大草紙』・「結城戦場物語」)。その結果、主謀者の結城氏朝(うじとも)は敗死し、結城方として行動した多くの国人らも、戦死または捕虜となった。結城氏らに擁立(ようりつ)された安王丸・春王丸の兄弟も捕らえられ、京都への護送途中に美濃国垂井(たるい)(岐阜県不破郡垂井町)の金蓮寺(こんれんじ)で処刑された(『建内記(けんないき)』)。
武蔵武士らが、大きな政変や反乱が起きるたびごとに大活躍をしてきたことは、しばしば述べてきたところであるが、今回の結城合戦でも同様であった。この反乱に関する史料から武蔵武士の氏名を見てみると、結城方には、大蔵民部丞(おおくらみんぶのじょう)・慈光寺(じこうじ)井上坊・吾野次郎(あがのじろう)・多賀谷彦太郎・玉井・鳩井隼人佐(はといはやとのすけ)・榛谷(はんがや)弥四郎など、おもに武蔵北部から北西部にかけての地域に本拠地をもつ武士たちが多く、追討軍方には武州一揆を代表として、おもに武蔵中南部に本拠地を置く武士が多かった(『鎌倉大草紙』・「結城戦場物語」)。これらをとってみても両軍にとって武蔵武士が、それぞれにおいて重要な部分を占めており、彼ら武蔵武士の帰属が、その合戦の勝敗を左右するといっても過言ではなかった。つまり武蔵武士の行動が、ときの政局に大きな影響力を及ぼす存在となっていたのである。

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