北本市史 通史編 古代・中世

全般 >> 北本市史 >> 通史編 >> 古代・中世

第5章 関東府の支配と北本

第1節 建武新政と鎌倉府の成立

武者所結番と足立遠宣

写真34 武者所結番定所 建武記

(国立公文書館内閣文庫蔵 埼玉県県史編さん室提供)

後醍醐天皇は建武元年(一三三四)五月以前に皇居警護を主な任務とする武者所(むしゃどころ)を設置した。延元(えんげん)元年・建武三年四月の結番表が残されており、職員の一人として足立遠宣(とおのぶ)の名が見える(古代・中世Noーー九)。
足立遠宣は、霜月騒動(しもつきそうどう)で敗死した足立氏惣領直元の弟基氏の曽孫にあたる人物であった(古代・中世P四六三)。この遠宣が動乱期にどのような行動をとっていたかは不明だか、建武元年九月二十七日に尊氏の随兵として登場する(『朽木(くつき)家古文書』)。当時尊氏と護良(もりよし)親王との対立が表面化しており、遠宣は尊氏護衛兵のー人であった。ついで同二年八月の「中先代(なかせんだい)の乱」の際に、関東に下る尊氏軍のー人として遠宣がおり(金勝院(こんしょういん)本『太平記』)、明らかに遠宣は足利方として活動していた。
ついで遠宣は武者所の職員としてその名がみえる。この当時尊氏を九州に追った天皇は、足利対策の一つとして武者所構成員の改変を行い、その結果新田氏五人、楠木氏三人、名和(なわ)氏二人など大部分の職員が天皇方の人々であった。従ってこの時点で職員となった遠宣も当然天皇方であったと思われる。
建武三年五月、天皇は比叡山(ひえいざん)に逃れているが、その時の随兵として遠宣の名が見える(金勝院本『太平記』〇京都での足利軍と天皇軍との戦いは足利軍が勝ち、同年十月に講和が成立し天皇は帰京した。その際天皇は、秘(ひそ)かに諸国に皇子や武将らを派遣し再起を策しているが、遠宣も名和義高や結城兼光らとともに奈良に逃れた(金勝院本『太平記』)。これ以後遠宣は史料に見えなくなるが、畿内を中心に反足利闘争を行っていったものと思われる。

<< 前のページに戻る