北本市史 通史編 古代・中世

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第5章 関東府の支配と北本

第1節 建武新政と鎌倉府の成立

南北朝内乱と吉見氏
南北朝内乱期はじめに現れるのが吉見圓忠(えんちゅう)である。圓忠は尊氏が挙兵した元弘三年(一三三三)五月三十日、尊氏から「伊勢国凶徒対治(いせのくにきょうとたいじ)」の命令を同国三重郡地頭御家人らに伝達し(古代・中世Noーー五)、さらに建武二年(一三三五)十二月には圓忠の子範景(のりかげ)が同国内で尊氏方として挙兵している(「楓軒文書纂(ふうけんもんじょさん)」)。

写真35 賀茂両社行幸足利尊氏随兵交名 朽木家古文書

(国立公文書館内閣文庫蔵 埼玉県県史編さん室提供)

ついで足利尊氏の随兵として吉見某が見える(『朽木家古文舌』)。さらに建武二年の京都での合戦では、侍大将として吉見頼隆の名が見え(『梅松論(ばいしょうろん)』)、尊氏の九州落ちにも従っている。それらの功績により、のちに頼隆は越中国守護に、甥の頼顕は能登国守護となっている(古代・中世P四五八)。この時点で吉見氏が北陸二国の守護に任命された理由はわからないが、鎌倉時代以来、能登国内に所領を持ちその地で活動していたことによるものと推測される(「永光寺(ようこうじ)文書」)。ただし、越中国守護は同四年七月以前に解任された。能登国守護も頼顕より頼隆に替わり、その子氏頼の康暦(こうりゃく)元年(一三七九)四月まで在職が確認できる(「松雲公採集遺編類纂(しょううんこうさいしゅういへんるいさん)」)が、以後は不明である。細川・畠山・山名などの有力氏族の守護職の独占化にともない、吉見氏も能登国守護職を解任されたのであろう。
以後吉見氏は、渋川氏の守護代としてその名が見えるものや、幕府の奉公衆(ほうこうしゅう)の一員としてその名がみえるもの(「康正(こうしょう)二年造内裏段銭国役引付(ぞうだいりたんせんくにやくひきつけ)」)などが確認でき、いずれも能登国守護であった頼隆の子孫と考えられ、守護職解任以後その活躍の場を中央に求めたものと考えられる。

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