北本市史 通史編 古代・中世

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第5章 関東府の支配と北本

第2節 関東公方と関東管領

観応の擾乱と武蔵野合戦
室町幕府内での足利直義(ただよし)と高師直(もろなお)との政治的対立は、武力衝突(しょうとつ)という形で表面化した(観応(かんおう)の擾乱(じょうらん))。貞和五年(一三四九)八月、師直は直義を攻撃し、直義らを失脚(しっきゃく)させることに成功した。政治の実権を握った師直は、人事改革を断行し、鎌倉府については、鎌倉御所は足利千寿王(義詮(よしあきら))から弟の光王(基氏(もとうじ))に、関東管領は高重茂(こうのしげもち)から高師冬(こうのもろふゆ)に、伊豆国守護も上杉憲顕から高一族に改替(かいたい)した。しかし、十月には直義の反撃があり、今度は師直が失脚し、ついで殺害されてしまった(「圜太暦(えんたいりゃく)」・『太平記』)。
鎌倉府でも、師直派の高師冬と直義派の上杉憲顕との間で争いが表面化し、師冬は甲斐(かい)国須沢(すざわ)城(山梨県中巨摩郡白根町)に逃れたが、結局上杉氏らに攻め滅ぼされた(「醍醐寺報恩院文書録」・『太平記』)。この結果、関東管領には上杉憲顕、鎌倉府内の守護も武蔵国は憲顕、伊豆国は石堂義房(いしどうよしふさ)、常陸国は佐竹氏というように直義派の武将が任命された。
しかし、直義主導の体制は永続せず、観応二年(ニーー五ー)七月には尊氏と義詮の反撃が開始された。軍事的劣勢にたった直義は、鎌倉に逃れた。関東での直義勢力の強大化を恐れた尊氏は同年十一月に関東へ下向し、十二月には駿河など各所で直義軍を撃破し、文和(ぶんわ)元年(一三五二)正月五日に鎌倉に入った(「町田文書」・『太平記』)。

写真36 高羅経澄軍忠状 日高市 町田純一家蔵

(埼玉県立文書館提供)

幕府を二分しての政争は武蔵武士にも影響を与え、両派に分れて争った。尊氏派の高麗経澄(こまつねずみ)の軍忠状によれば、経澄は武蔵国守護代薬師寺公義(やくしじきんよし)の呼びかけに応じ、十二月十七日公義とともに鬼窪(おにくぼ)(南埼玉郡白岡町)で挙兵し、同十八日の羽祢蔵(はねくら)合戦(浦和市)では難波田(なんばた)九郎三郎らを討ち取り、阿須垣原(あすがきはら)合戦(飯能市カ)では吉江新左衛門尉(直義が任命した武蔵国守護代)らと戦い、小沢城(川崎市)を焼払い、翌年正月一日伊豆国国府(静岡県三島市)で尊氏軍と合流し、尊氏の御供として鎌倉に入っている(古代・中世Noーニニ)。
幕府が内部分裂をしているすきをねらって、新田義興(よしおき)(義貞の子)らが上野国で挙兵し武蔵に進軍してきた。尊氏は、河越氏・豊島氏・江戸氏らの武蔵武士らを従えて出陣し、閏二月二十日武蔵の人見原(ひとみがはら)(東京都府中市)などで新田軍と戦ったが敗れ、石原(東京都台東区)に陣を布(し)いた。尊氏との合戦に勝った義興らは、鎌倉に入っている。新手を加えた尊氏は、閏二月二十八日再度新田軍と武蔵の小手指原(所沢市)や入間(いるま)河原(狭山市)などで戦いこれを破り、鎌倉を回復した(「町田文書」・『太平記』)。この一連の戦闘の結果、関東での反足利勢力の活動が沈静化することとなつた。

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