北本市史 通史編 古代・中世

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第5章 関東府の支配と北本

第2節 関東公方と関東管領

正平の板碑と北本
現在市域には宝篋印塔(ほうきょういんとう)・層塔(そうとう)・五輪塔(ごりんとう)・板碑などの中世の石造遺物が残されているが、なかでも板碑は三八六基が確認されている。このうち最古のものは石戸宿東光寺にある貞永(じょうえい)二年(一二三三)銘であり、最新のものは髙尾妙音寺にある永禄(えいろく)年間(一五五八~七〇)銘のものである(古代・中世P三五四・三五六)。

写真37 正平の板碑

(朝日 光蔵寺)

板碑のなかでとくに注目されるのが、正平(しょうへい)年号の板碑である。これは正平七年(一三五二)二月二十三日付で、朝日光蔵寺に所在するものである(古代・中世P三五九では十月としているが二月と思われる)。全体の髙さは四六・七センチメートル、最大幅は一七・四センチメートル、厚さは二・〇センチメートルで、主尊には梵字(ぼんじ)でバク(釈迦如来(しゃかにょらい))が陰刻(いんこく)されている。
正平年号で思い出されるのが、足利尊氏と直義兄弟が争った「観応(かんのう)の擾乱(じょうらん)」である。この内乱は文和(ぶんわ)元年(一三五二)の直義の死と、内乱に乗じて蜂起した新田義興らを破ったことで一段落した。この間尊氏は南朝と妥協(だきょう)し、観応二年(一三五一)十月から文和元年閏二月の間に、南朝の「正平」年号を使用した。
現在、正平年号の板碑は県内に二四基あり、うち一一基が羽根倉道(はねくらどう)の周辺地域に残されている(諸岡勝〈東国における「正平一統」と金石文〉『埼玉県史研究二四号』ー九九一)。この道筋は、東京都東村山市より所沢市に入り、所沢市を通る道と富士見市を通る道に分れるが、志木市で合流し羽根倉橋をへて浦和市に入り、与野市・大宮市・上尾市・伊奈町・菖蒲町を通り、加須市で「中道」と合流して群馬県に至るというものであった。
さらに市域西部の荒川沿いに、名称は不明だが別の鎌倉街道があった。桶川市川田谷を北上し、市内石戸宿を通り鴻巣市・行田市・羽生市を通り群馬県に抜けるというものである。この街道周辺にも鴻巣に一基、行田に一基、羽生に一基の正平年号の板碑があり、羽根倉道のものとあわせると一四基の多くを数えることになる。
足利氏が幕府創設以来、武蔵国のなかでも足立郡と埼玉郡を重要視しており、また大宮の氷川社と尊氏(「岩井家文書」)、戦死した尊氏の子を埋めたと伝えられる与野市の「高金塚(こうきんずか)」(『新記』)、浦和の調宮(つきのみや)と尊氏(『新記』)、蕨市と渋川氏(『鎌倉大草紙』)、戸田市と桃井(もものい)氏(『新記』)というように、足立郡内には足利一族に関する遺跡や伝説などが数多く残されている。このことと足立郡の南北を貫く羽根倉道沿いに正平の板碑が残存することとは、決して無関係ではない。幕府創設以来の尊氏らの政治的努力が、この時の動乱に際して足立郡内の多くの武士が足利方として活動した結果と思われる。また市内に正平の板碑が残されているということは、足利方として活動したものが市域にもいたことを示している。

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