北本市史 通史編 古代・中世

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第5章 関東府の支配と北本

第2節 関東公方と関東管領

関東府の成立と武蔵武士
鎌倉に戻った尊氏は、勲功のあった将士に恩賞を与える(古代・中世No一二三・一二五)一方、さっそく鎌倉府の再建にとりかかり、子の基氏を関東公方(くぼう)とし、関東管領には畠山国清を任命し、武蔵国には仁木頼章(にきよりあき)、相模国には河越直重など、関東各国の守義に尊氏派の人物を任命した(表14)。また武士らへの所領給与・所領所職に関する裁判権力などを与え、広域地方行政機関とした。いわゆる「関東府」の成立である。
表14 守護返還表
 期間
国名
観応2 . 2〜同年 .12 文和1.1〜文和2 . 7 
甲 斐武田信武
伊 豆石塔義房畠山国清
相 模佐竹義長→三浦高通武田参河守→川越直重
武 蔵上杉憲顕 仁木頼明
上 総千葉 氏胤
下 総千葉 氏胤
安 房南 宗継
常 陸佐竹貞義→上杉氏 佐竹貞義→佐竹義篤 
上 野上杉憲顕 宇都宮氏綱
下 野(不明) 
信 濃小笠原政長 
関東府の当面の課題は、反足利勢力対策、とくに反足利の中核となった児玉党や丹党(たんとう)などであり、彼らは鎌倉街道の上道(かみつみち)を主要の交通路としていた。一方尊氏方として活躍していた河越氏・豊島氏ら平一揆(へいいっき)の本拠地も、武蔵南部の上道の周辺地域であった。基氏らは、平一揆の武力を頼ることができ、敵対勢力を押えるのに最適なところとして入間川(いるまがわ)(狭山市)に出陣した(古代・中世No一二六基氏がいつまで在陣していたのかは不明だか、延文(えんぶん)三年(一三五八)には新田義興(よしおき)の殺害に成功していること、翌四年十月には畠山国清が入間河から上京していること(『太平記』)などから、国清の上洛時期と相前後して入間川の陣より鎌倉へ戻ったものと思われる。
この間、関東府の政治を行ったのは関東管領畠山国清であったが、関東武士に対し強圧的に臨(のぞ)んだため武士らの反発をかい、ついに基氏の追討をうけることになった。追討軍の中心は平一揆であり、伊豆に逃れた国清を攻撃してこれを降伏させた(「豊島宮城文書」・『太平記』)。この功績により伊豆国守議には平一揆の高坂氏重(こうさかうじしげ)が任命され、さらには武蔵国に関する使節にも古尾谷(ふるおや)氏や高坂氏らが登場するなど、相模国守護の河越氏とあわせて基氏政権内での平一揆の政治的地位が飛躍的に上昇した。
貞治二年(一三六三)三月基氏は、旧直義党の上杉憲頭の関東管領への復職を要請した(「上杉家文書」。これに対し旧尊氏党、とくに上杉氏の復帰にともない守護職を解任される芳賀禅可(はがぜんか)と宇都宮氏綱(うじつな)らは、反上杉氏を旗じるしに挙兵したが、基氏軍との岩殿山(東松山市)合戦に敗退した。この結果、宇都宮氏は保有していた上野国の守護職を、また宇都宮氏に同調した河越直重も相模国守護職を解任された。これにより関東府内での平一揆など旧尊氏党の政治的地位が低下したのに反し、上杉憲顕(のりあき)や高師秋(こうのもろあき)などの旧直義党の政治的地位と発言力が上昇することになった。とくに上杉氏は、武蔵国にその勢力を進出するきっかけを得ることができた。しかし逆にいえば新勢力の上杉氏と、旧勢カの平一揆との武蔵をめぐる対立という新たな火種をつくったともいえよう。

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