北本市史 通史編 古代・中世

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第5章 関東府の支配と北本

第2節 関東公方と関東管領

平一揆の乱と上杉氏の武蔵支配
応安(おうあん)元年(一三六八)二月、関東管領上杉憲頭の上京中を狙って、河越・江戸らの平姓武士らが挙兵した。関東に戻った憲顕はただちに出陣し、六月十七日の河越合戦で平一揆軍を破り、ついで同調して挙兵した宇都宮氏をも降服させた(「花営三代記(かえいさんだいき)」・「諸国古文書抄」)。
当時の平一揆は、構成員の高坂氏重が伊豆国守護を、河越氏は基氏の側近となっており、臨終(りんじゅう)の基氏に氏満(うじみつ)の補佐を頼まれる(「細川頼之記(ほそかわよりゆきき)」)など、かなりの政治的立場にあった。一方憲顕の関東府復帰以来、着々と政治的実力をつけてきた上杉氏の存在は、平一揆にとっては好ましいものではなかった。したがって上杉氏の復帰で守護を解任された宇都宮氏らを誘い、憲顕の留守を狙って挙兵したものであった。

図12 上杉氏略系図

結果は平一揆側の敗北に終わり、一揆の中心であり平安時代以来勢力を誇ってきた河越氏は、これ以後史料に見えなくなるほどの壊滅的打撃をうけ、また高坂氏も保有していた伊豆国の守護職を解任され、本貫地の高坂郷(東松山市)など多くの所領を没収されてしまった(古代・中世No一二九・一三〇)。一方上杉氏は、武蔵と伊豆の守護職を獲得しており、関東管領職も上杉氏の独占となるなど、関東府内最大の氏族に成長した。しかし、武蔵の守護となり、高坂氏や河越氏らの旧領のほとんどを獲得したと思われる上杉氏と武蔵武士、とくに平姓の武士たちとの関係は円滑にいくはずがなく、以後ことあるごとに対立することとなつた。
氏満執政時代の最大の事件は、小山義政(おやまよしまさ)父子の乱であった。康暦(こうりゃく)二年(一三八〇)二月、小山義政と宇都宮等綱(ともつな)との所領争いよりはじまったこの乱は、氏満による小山義政征伐という事態に至り、同年六月氏満は鎌倉を発ち武蔵府中に入った。ついで村岡(むらおか)(熊谷市)に進み、八月には小山氏が在陣していた祇園(ぎおん)城(栃木県小山市)を攻め、九月に攻略し義政を降伏させた(「雲頂庵(うんちょうあん)文書」)。しかし義政は、これ以後も反乱と帰服を繰り返していたが、永徳(えいとく)二年(一三八二)四月、武州白旗一揆(しろはたいっき)らにより討伐された(「江田文畫・『鎌倉大草紙()かまくらおおぞうし』)。
義政の死により収まったかにみえた小山氏の乱は、その子若犬丸(わかいぬまる)(隆政)により再発し、三回にわたって挙兵したが、応永(おうえい)四年(一三九七)正月、ようやく若犬丸を討つことに成功し、小山氏の乱は終息した(『鎌倉大草紙』)。
小山氏の反乱の要因は、大田庄の領有権をめぐるものであった。関東府は、貞和(じょうわ)年間(一三四五~五〇)以前から大田庄の管理権を持っており(「諸国文書」)、小山氏も建武(けんむ)年間以来その権利を保有していた(『梅松論』。大田庄の完全な支配権を得て武蔵国中西部に確固たる足場をつくろうとする氏満と、従来からの権利を守ろうとする小山氏との間に対立が生じ、今回の義政父子の挙兵、敗北で大田庄の一部は戦功のあった諸将に与えられたが(「安保文毒」・「報恩寺年譜」)、大部分は関東府の直轄領(とくに「御料所」(ごりょうしょ)といった)となった。氏満の狙いどおり武蔵国内の拠点づくりは成功したが、今度は守誣である上杉氏との間が微妙なものとなった。

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