北本市史 通史編 古代・中世

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第6章 後北条氏の武蔵進出と岩付領

第2節 後北条氏の武蔵進出

小田原衆所領役帳と北武蔵
河越合戦の後に服属した太田資正・成田長泰等北武蔵の有力領主たちを、後北条氏がどの様に統制し、その支配下郷村を掌握していたかは、永禄二年(一五五九)二月十二日に北条氏康が作成した「小田原衆所領役帳」(古代・中世No.一八二、以下「所領役帳」と略す)によつてうかがえる。
「所領役帳」は、検地等によって確定した家臣や関係者の知行役高とその所在地を各人ごとに記した帳簿であり、彼らに軍役や諸役を賦課する際の基本台帳であった。計五六〇名の者が、江戸衆・松山衆・河越衆等、各地の支城に編成された軍団と御馬廻衆・諸足軽衆・御家門方等、性格別に編成された家臣団とに大別され、計一六衆に分けて登録されている。貫高は、検地によって確定されたものが多く、「所領役帳」には弘治元年(一五五五)に埼玉県域の五四か所で検地が行われたことが記録されている。内訳は、入間郡三〇か所、比企郡ニ一か所、高麗郡二か所、郡名不詳一か所で、大部分は足立郡の西部に広がる入間・比企両郡である。このことから氏康が、河越城と松山城を拠点としてその周辺の郷村を強力に掌握したことがわかる。関係地域は、市域に隣接する吉見町域が七か所、川島町域が三か所にのぼり、すでに市域の西側まで完全にその領国に併合されていた(『県史通史編二』第四章第二節4—68表)。しかし、その地域は限定されており、足立郡をはじめとする太田氏領の大半や北武蔵の東部・西北部では後北条氏の郷村掌握はなされず、服属した各地領主を通しての間接支配にとどまっていた。北武蔵の各地を領していた武将達の多くは、まだ強力に後北条氏によって掌握されていたわけではなく、「所領役帳」では一括して「他国衆」に属していた。他国衆は計二八名からなるが、二〇名までが武蔵の領主であり、主にこの地域の領主達を編成したものであった。このうち、市域周辺を領有した岩付城主太田資正・氏資父子および忍城主(行田市)成田長泰、比企郡の領主上田朝直(後の松山城主)について検討したい。
太田氏は、資正が入東古尾谷(ふるおや)(川越市)に七七六貫四〇〇文を、子息氏資が相模国小稲葉(神奈川県伊勢原市)に二〇〇貫文を登録されている。そして、春日兵庫助・細谷新八・養竹院をはじめとして、岩付太田氏の家臣や関係者が計六名も記載され、後北条氏の統制下に置かれていたことを示している。彼らの給地は、相模国室田(神奈川県茅ケ崎市)、同淵延(ふちのべ)(同相模原市)、武蔵国福岡(上福岡市)、同山口(所沢市)の六か所であった。すなわち、それらは太田氏の支配領域としては周縁部に属する入間郡の一部と、後北条氏の本領の相模国からなっていた。後北条氏は太田氏の分国の大部分を占める足立郡・埼玉郡・比企郡は全く掌握できず、ただ後北条氏の支城河越城の周辺にある岩付領の一部を把握するにとどまったのである。そして、服属のあかしとして本領相模より給地を与え、その地から軍役を徴発することが太田氏統制の中心であった。氏康と資正の関係は対等の同盟関係に近いものであった。
忍(おし)城主成田長泰も、太田氏と同様に自立性の極めて強い領主であった。成田氏は、武蔵国成田郷(熊谷市)を本貫の地とする鎌倉時代以来の在地領主であったが、戦国初期の争乱の過程で発展し、成田親泰・長泰・氏長の三代にわたって周辺地域を領有し、地域的領主としての権力を確立した。その分国は、現在の行田市・熊谷市・北埼玉郡南河原村・大里郡妻沼町を中心とした地で、忍領(成田領)と呼ばれた。『新記』によれば、近世の忍領は市域に近接する足立郡北部(吹上町・鴻巣市北西部)に及んでおり、成田氏の領国は市域の周辺にまで及んでいたことも考えられる。
「所領役帳」によれば、永禄二年(一五五九)当時の成田長泰の知行地は、相模国中郡大嶋郷(神奈川県平塚市)八三貫八〇〇文のみであり、成田氏の支配領域は氏康から全く掌握されていなかった。太田氏以上にその独立性は高かったのである。なお、小机(こづくえ)衆の北条三郎の知行地中、小机猿山等四か所(横浜市港北区周辺)あわせて一ニニ貫四八〇文は、「元成田衆知行」とあり、ここにかつて成田氏の家臣の給地があった。戦国時代の初期の文明年間(一四六九~八七)ごろ、小机の地には山内上杉氏の家宰長尾忠景の所領があり、成田三河三郎が代官であった(鎌含市円覚寺「雲頂庵文書」、山田邦明「鎌倉雲頂庵と長尾忠景」『戦国期東国社会論』)。そうした関係がその後も継続し、後北条氏によつて成田氏の知行地として安堵されていたのではなかろうか。山内上杉氏の権力に密着しながら成長してきた、関東の有力武将としての成田氏の性格がうかがえる。
他国衆の一員である上田氏も、室町末期ごろには扇谷上杉氏の重臣として知られていた名門武将である。その関係地は、比企郡の外、相模国実田(さなだ)(神奈川県平塚市)、江戸城に近接する池上本門寺(東京都大田区所在、日蓮宗大本山)や秩父郡東秩父村御堂の浄蓮寺(日蓮宗)等に及んでおり、その活動範囲の広域性は、上田氏の発展が鎌倉府の実権をにぎり、相模・武蔵両国に大きな勢力を保有していた扇谷上杉氏の権力との関係のうえに形成されたことを示している(『東松山市の歴史上巻』第六章)。
「所領役帳」によれば、上田朝直(案独斎)の知行地は六か所で計四七一貫四七〇文であった。それらは、相模国東郡粟船郷(鎌倉市)二六〇貫三四文、比企郡の四か所、計二一一貫四三六文、江戸廻平塚之内中里(東京都北区、貫高不明)の三地域に大別される。このうち、最初に記され貫高の最も多い粟船郷が上田氏の本領とみられる。もともと北武蔵の在地領主ではなく、扇谷上杉氏の重臣として相模を拠点に活動していた性格がまだ残存していたのである。そして、比企郡内に半数以上の四か所の給地があり、かつて松山城将でもあったという上田氏が、しだいにこの地域の領主として成長しつつある様子がわかる(比企郡川島町・養竹院所蔵「太田資武状」他)。そして、そのうち三か所が野本(東松山市)にあり、ここがその本拠地であった。ただし、この比企郡の四か所だけは弘治元年(一五五五)の検地によって確定したことが記されており、後北条氏によって強力にその郷村が掌握されていた。その本領を含む、多数の所領が登録されていることとあわせて、上田氏は同じ他国衆でも太田氏や成田氏に比べてはるかに強い後北条氏の統制を受けていたことがわかる。
すでに当時、松山城は後北条氏の支城であり、狩野介(かのうのすけ)(伊豆国狩野<静岡県田方郡天城湯ヶ島町・修善寺町>を本貫の地とする領主)を筆頭とする後北条氏の直臣一五人が配置されていた。また、松山城周辺地域には、小田原衆に属する筆頭の重臣松田左馬助や江戸城代遠山綱景等の有力家臣の知行地も多く、後北条氏の領国として掌握されつつあった。そのため上田氏の権力は、太田氏・成田氏に比べればかなり不安定であった。
武蔵周辺地域の有力領主のうち、比較的早く後北条氏に服属した者は、江戸衆(江戸城代遠山綱景のもとに配置された家臣団)に編成されていた。江戸太田氏の当主康資や、岩付太田氏の家臣で、全鑑(資時)に従って北条氏康に属し、資正と敵対した上原出羽守・細谷三河守等が代表例である。その他、北武蔵の支配に関与した江戸衆の武将として、岩付太田氏の本領域である足立郡内野郷(大宫市)等を領有した武蔵国赤塚城主(東京都板橋区)千葉氏とともに、上田氏の一族の豹徳軒をあげることができる。
上田豹徳軒の知行地は、市域周辺にまで及んでいた。その知行地の他、十一か所・三十四貫五〇文で、本領は相模国東郡長尾金井(横浜市戸塚区)五三貫九〇〇文である。しかし、この本領を除くと残りは武蔵国に所在しており、七か所・一九〇貫八五〇文までが、当時はまだ後北条氏の本領とはいえない北武蔵(河越城・松山城周辺)に所在していた。そのなかには、岩付領の足立郡渕江(東京都足立区)や、後に岩付領に編入される入間郡勝呂(すぐろ)(坂戸市・川越市周辺)も含まれていた。残りは市域西部に接する比企郡が多い。さらに、そのうちの一か所は、久下(くげ)近所の𤭖尻(みかじり)領家方(熊谷市)五貫文であった。この地は、成田氏の支配領域忍領の中心地であり注目される。後北条氏は豹徳軒を通じて、太田資正ばかりではなく、成田長泰の勢力圏にまで支配を及ぼしていたことが推定される。この久下の地については、特に「領主如申辻」と注記され、後北条氏はその所在地の詳細については掌握しえず、ただ上田氏の申告どおりに認めたのであった。成田領に近接しているため、後北条氏の直接的な支配権が及んでいないことを示しているのではなかろうか。
なお、豹徳軒の知行地の渕江・勝(すぐろ)(呂)・久下近所等六か所・計九八貫文の前に、「此外半分岩付へ所務」との注記があり、これらの課役の一部は岩付城主太田資正へ差し出されていた。太田氏の支配領域内に給地があったことも推定されよう。
このように後北条氏は、当時太田氏や成田氏の分国には原則として関与しえず、ただ軍事的服属関係を結んだだけであったが、そのかわり両氏と同じく名門武将の千葉氏・上田氏らを通して、それらの地にも支配権を及ぼしつつあったことがわかる。後北条氏は、武蔵進出にあたって現地の有力領主を誘引し、彼らの力を利用しながら支配圏を拡大していった。それは渋江氏・江戸太田資高・岩付太田全鑑等との結びつきに如実にみられるが、上田豹徳軒等の知行もその一例である。

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