北本市史 通史編 古代・中世

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第6章 後北条氏の武蔵進出と岩付領

第3節 太田氏の発展と北本

太田資正の分国支配
後北条・上杉両氏の抗争のなかで、岩付城主太田氏はその間隙(かんげき)をぬって独自の地域権力を形成した。太田資正・氏資の二代にわたって、その領域支配は最盛期を迎えたのである。以下、ふりかえってその様子を検討したい。
太田氏がその支配領域の岩付領に発給した文書は、計五二点が知られている。それは、武蔵国内の地域的領主である忍城主成田氏、秩父郡天神山城主(長瀞町)藤田氏、多摩郡滝山城主(東京都八王子市)大石氏、深谷城主上杉氏等の発給文書に比してはるかに多く残存し、太田氏権力の強大さが推定される。発給文書の大部分は、資正と氏資が出したものである。
資正が岩付領内に発給した文書は、天文十八年(一五四九)九月三日より永禄六年(一五六三)閏十二月六日までの一四年間に及び、その年次別内訳は表16のようになる。文書点数のうえから、 領内への権力の浸透は弘治三年(一五五七)から永禄六年(一五六三)ごろにかけて強化され、このころが最盛期であった。特に、上杉謙信の支援を受けて北条氏康と対決した、永禄四・五年に点数が増加しており、後北条氏から自立するため積極的な分国支配を行ったことが分かる。
表16 岩付領地域の支配を伝える 太田資正の発給文書、編年別一覧
年代 西暦 点数  年代 西暦 点数 
天文18 1549  永禄3 1560 
天文22 1553  永禄4 1561 
天文23 1554  永禄5 1562 
天文24 1555  永禄6 1563 
弘治2 1556  年不詳 
弘治3 1557  
永禄2 1559  計 28 
資正の分国は、埼玉・足立・入間・比企四郡に及ぶが、その発給先は足立郡が多く、在地支配の浸透は特に当地域で進んでいたようである。その発給文書によれば、太田資正は、慈恩寺(岩槻市慈恩寺所在、天台宗)・忠恩寺(南埼玉郡白岡町高岩所在、浄土宗)・清河寺(大宮市清河寺所在、臨済宗)・赤井坊(北足立郡伊奈町小室所在、真言宗)等の領内の寺院や、比企氏・三戸氏・道祖土氏・内田氏等各地の領主に所領の安堵や各種の権利を付与し、しだいにその上級領主としての地域権力を形成していった。
こうした発給文書のなかでは、天文二十二年(一五五三)六月十一日に忠恩寺にその門前における人足の棟別を免除したこと(「忠恩寺文書」)、弘治(こうじ)三年(一五五七)四月八日に比企郡三保谷郷(川島町)の領主道祖土図書助に郷内の伝馬役について申付けたこと(「道祖土家文書」)、永禄四年(一五六一)二月二十六日に、内田兵部丞に砂原(鴻巣市)かの地の開発を命じその地の代官に任じたこと(「屋代家文書」)等が注目される。棟別銭(むなべっせん)の賦課、伝馬制度の導入、在地土豪に郷村内の開発を行わせ彼らを代官に任命して郷村内に直轄領を設定すること等は、戦国大名の領国支配策としてよく知られており、当時後北条氏の領国でも盛んに行われていた。従ってこれらは太田資正が、その分国内で大名に相当する権力をもっていたことを示している。
なお、元亀(げんき)四年(一五七三)十二月十日に、北条氏政が訴訟の裁決を砂原の百姓に伝えた裁許印判状は、鴻巣市宿(いちじゅく)新田(しんでん)の土豪小池長門守の子孫宅に伝存されており、資正が設定した直轄領砂原は市域周辺の鴻巣郷内に所在したことも考えられる(『武州文書』足立郡)。資正の支配政策としては、郡を範囲とする一円的な広域支配も注目される。
資正は、弘治二年(一五五六)に、京都の聖護院配下の本山派修験(しゅげん)寺院大行院(鴻巣市南下谷所在)と玉林院(浦和市中尾所在)に判物(はんもつ)を与え、それぞれに上足立三十三郷・下足立三十三郷の伊勢熊野先達(せんだつ)衆分檀那職を安堵した(古代・中世No.一七八)。それは修験道の統制をとおしてとはいえ、資正の足立郡の範囲における広域的な支配のあり方を示している。永禄四年十二月二十一日、比企左馬助を比企郡代に任命したのもこうした郡を通しての広域的な上級領主権行使の一例である(『武州文書』比企郡、「比企家文林」)。

写真55 太田資正剣札 桶川市 明星院文書

(埼玉県立文書館保管)

太田資正は、岩付領を支配するにあたって各地に支城を設けている。それは軍事拠点であっただけではなく、領内統治の役割をも担っていたと思われる。資正は永禄三年(一五六〇)十二月に、子息の潮田(うしおだ)資忠を寿能(じゅのう)城主に配置するため、その周辺の大宮・浦和・木崎・領家(大宮市・浦和市)を与えたといわれる(「潮田家文書」)。同四年に後北条氏から松山城を奪ったのも、ここを拠点に比企郡を掌握するためであった。市内にある石戸城も、かつて太田資頼の居城であり、松山城攻めのため上杉謙信が着陣したこと、北足立地方最大の城郭(じょうかく)であること(古代・中世P三二三~三三三)等から、こうした支城網のひとつといえよう。

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