北本市史 通史編 古代・中世

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第6章 後北条氏の武蔵進出と岩付領

第3節 太田氏の発展と北本

宫内の開発と鴻巣七騎
岩付城主太田資正の「領」域支配が直接市域に及ぼされていたことは、市内宫内周辺の開発を奨励したことによってもうかがうことができる。永禄二年(一五五九)三月二十四日、資正は大島大炊助(おおいのすけ)に判物を与え、「当郷打明けの事、その方深井と談合至し開かせべく候、郷中の百姓等、菟角なく入り籠せべきなり」と命じている(古代・中世No.一八三)。大島氏に深井氏と協力して郷内の百姓を動員し、郷中の荒野を開発するよう指示したのである。当時、各地の戦国大名は年貢・諸役の増収を進め、財政基盤の安定をはかるために地侍(ぢざむらい)(在地土豪)や郷村農民に命令して田畑の開発を推し進めている。岩付太田氏や後北条氏も例外ではなく、市域周辺では足立郡市宿新田(鴻巣市)、比企郡井草郷((川島町)、足立郡鴻巣宮内・別所村(北本市)等で荒地の開発が命じられている(『武州文書』)。
大島氏は、江戸時代に宮内村(上宮内村・下宮内村)に土着していた旧家彦兵衛の先祖で、戦国時代に市域周辺の鴻巣付近一帯に土着していたといわれる地侍「鴻巣七騎」の一員としても知られる(古代・中世P四四〇~四四一)。大島は、「系図」によれば新田氏の一族で伊豆国を領し大島に居住していたが、後北条氏に従って武蔵国に移住したと伝えられている。ただし詳細は明らかではない(古代・中世P四五四~四五五)。大島大炊助は、永禄八年(一五六五)四月に、岩付城主太田氏資の家臣河目資好から「その方拘えの宮内村、以上十貫五百文の所相出し候」と知行地を与えられており、これ以前より宮内を支配する領主であった(古代・中世No.一九一)。従って、大島氏が開発を命じられた「当郷」とは、宮内を含む市域周辺に広がる「鴻巣郷」のことであろう。
大島氏は、深井氏と相談して開発するように命じられている。深井氏は、宮内の北に接する深井(北本市)の領主であった。大島大炊助と同時期に活躍した深井対馬守(つしまのかみ)景吉は、深井に居住した在地武士で「鴻巣七騎」の一人として知られる。深井の小名堀之内は、その居館跡と伝えられる(古代・中世P四四〇)。

写真57 深井家墓地 深井 寿命院

深井氏の祖は、戦国初期に太田道灌と激しく戦った長尾景春(本章第一節)といわれ、景吉の祖父景行のころから鴻巣辺を領有したという。景吉は太田氏資の家臣であったが、永禄十年(一五六七)八月の上総国三船山(みふねやま)合戦(後述)で氏資が戦死したため、その後深井に土着し帰農したという(古代・中世P四四四~四四八)。「系図」にみえる深井対馬守とその子藤右衛門尉(好秀)は、同年九月以降岩付領を支配した、北条氏政・太田氏房(太田氏資の養子で岩付城主)父子の家臣としてその発給文書に散見される。それらによって、深井対馬守と藤右衛門尉が実際に親子であることや、対馬守が氏資死後も完全に帰農したわけではなく、太田氏房の家臣であったらしいことがうかがえる。
また深井氏は、太田氏房のもとで、天正十年代後半(一五八八~八九年ころ)には直轄領槽壁(かすかべ)(春日部市)の代官や岩付城蔵奉行(くらぶぎょう)に相当する役職についていた(本章第四節)。深井氏は氏房の中堅家臣として起用されていたことがわかる。太田資正は、地侍として郷内を支配している市域の領主大島・深井氏の支配下の農民を動員して、荒地の開発をさせたのである。開発地は、鴻巣郷のうち両名が関係している宮内・深井周辺と推定されよう。このことによって、市域に資正の強力な「領」域支配が及ぼされていたことが明らかになる。
先にも述べたように、戦国時代のころ市域付近の鴻巣周辺の村々には、「鴻巣七騎」と呼ばれる七人の在地武士(地侍)が土着していたとの伝承がある。その氏名と居住地は諸説あって明確ではないが、加藤修理亮(しゅりにすけ)(北本市中丸)、大島大膳亮(だいぜんのすけ)(同宮内)、深井対馬守(同深井・鴻巣市宫地)、小池長門守(鴻巣市鴻巣)、立川石見守(いわみのかみ)(同上谷)、河野和泉守(いずみのかみ)(同常光)、矢部某(同下谷)、本木某(桶川市加納)等の名が伝えられている。

図19 加藤氏館跡 中丸

このうち大島大膳亮は、先述した大島大炊助の一族と推定される。永禄七年(一五六四)三月二十四日河目資好から知行地を与えられ(古代・中世No.一九〇)、天正十八年(一五九〇)六月一日豊臣秀吉の部将浅野長吉から大炊助らとともに鴻巣郷内の在所で帰農するように命じられている(古代・中世No.二五六)。大島氏は市域を支配した代表的な在地武士であった。
小池長門守は久宗と称し、鴻巣宿の旧家三太夫の先祖で、天文二十年(一五五一)に北条氏康の命で岩付城下市宿(岩槻市市宿町)より現在地に来住し、原野を開いて市宿新田と命名したという。同家には同年九月一日に北条氏康より与えられた田畑の開発を命ずる虎印判状が伝存していた(古代・中世No.一七四『新記』)。なお市宿新田は、中世には深井庄(ふかいのしょう)に属したと伝えられ、市域とも関係のある地と推定される。
小池長門守の二男修理亮宗安は、市内下中丸に来住して母方の姓加藤氏に改称したという(『新記』)。江戸時代に下中丸村(北本市北中丸)に土着していた旧家幸左衛門は、加藤修理亮の子孫と伝えられる。村内には、修理亮の母(小池長門守夫人)が開創したと推定されている安養院(新義真言宗)もある。同寺には近世に再造したと伝えられる小池長門守・加藤修理亮父子の墓も現存している(『新記』)。この付近一帯は加藤氏館跡(幸左衛門屋敷跡)と伝えられ、現在も堀の跡とみられる窪地等、遺構(いこう)の一部が残存している(古代・中世P三四〇~三四二)。
このように、市域周辺の鴻巣郷には多くの在地武士が土着して郷村農民を支配していた。太田氏や後北条氏は、彼らを通して郷村の掌握を推し進めていった。

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