北本市史 通史編 古代・中世
第6章 後北条氏の武蔵進出と岩付領
第1節 太田氏の登場と岩付城
岩付城築城と石戸城江ノ島合戦の後も足利成氏と上杉氏勢力の対立はおさまらず、ついに享徳三年(一四五四)十二月二十七日、成氏は関東管領山内上杉憲忠を殺害し享徳の乱が勃発(ぼっぱつ)した。この後、扇谷上杉持朝が山内上杉氏にかわって両上杉氏の長老としてその権力の中心に立つことになったため、その家宰である太田道真・道灌(資長)父子の勢力も増大してきた(図16『県史通史編二』第三章第一節)。
図16 両上杉氏略系図
このうち菖蒲城は、市域の北東約五キロメートル、騎西城は同六・五キロ メ ートルのところに近接している。両城は、この後古河公方およびその権力を引きついだ後北条(ごほうじょう)氏、忍城主成田氏の支城として存続した。そして、古河公方・上杉氏・後北条氏の間で争奪が繰りかえされ、しばしば戦火を交えることになる。戦国期の市域周辺の歴史を知るうえでも重要である。なお佐々木氏は、戦国末期まで菖蒲城主として存続し、古河公方の衰退後は後北条氏の家臣となっている。
こうした足利成氏の城郭に対抗し、上杉氏の勢力圏である上野・北武蔵を守るために、それらの西側に上杉氏の城郭が築かれたのである。即ち扇谷上杉持朝は、長禄(ちょうろく)元年(一四五七)四月に河越城を築城、同時にその家宰(かさい)太田道真が岩付(槻)城を、道真の子息道灌が江戸城を構築したという(『鎌倉大草紙』、『松陰私語』『県史資料編八』他)。実際にはこの年に三城が一斉に築かれたのではなく、この前後に数年間かけて築城されたのであろう。
また、築城者についても諸説あって明確ではないが、実際には上杉持朝の命により太田父子がこの三城を築いたのであろう。上杉持朝が河越城主に、太田道真が岩付城主に、太田道灌が江戸城主になったものと推定されよう。
三城は、足利成氏に対抗する軍事拠点(きょてん)として有機的に関連づけられ、上杉持朝の河越城がその中心(本城)に位置づけられていたのであろう。以後扇谷上杉氏は、山内上杉氏・古河公方を圧倒しながら、河越城を拠点にして武蔵国を支配下に置くこととなる。太田氏もその家宰として、岩付城を本拠地に市域周辺を徐々に支配していくことになる。
市域の石戸城(石戸宿)も、このころ上杉氏・太田氏方の軍事拠点のひとつとして築城されたと考えられる。その築城年代を明確に伝える史料は残されていないが、遺構(いこう)等の考古学的調査により戦国時代前半ごろまでに築かれたものと考えられている(古代・中世P三二三~三三三)。その存在については、『古址遺跡(こしいせき)・碑文(ひぶん)』(古代・中世P四四四)に、足立郡石戸宿村 古城趾(中略)昔天神山ノ城ト唱へ扇谷上杉氏ノ家人藤田八右衛門卜云人居りシ所ナリト云(後略)と記されている。また、『武蔵志(むさしし)』(古代・中世P四三六)にも(前略)石戸天神山古城 石戸村二在 要害(中略)河越ノ臣藤田八右エ門ト申人住 川越エ南三里程也と記されている。これらの記述から、室町末期から戦国初期のころに河越城主扇谷上杉氏の家臣藤田八右衛門の居城として築かれたことが考えられる。藤田氏の詳細は不明であるが、この付近では大里郡藤田郷(寄居町)を本貫の地とする在地領主で、戦国期には天神山城主(秩父郡長瀞町)となり地域的領主として発展した一族が著名である。両者の関係は明らかではないが、参考として記しておく。
写真44 石戸城跡航空写真 石戸宿
関東の争乱に関連して、室町末期から戦国初期には各地で地域的領主の拠点としての城郭が数多く築かれている。市域周辺の北武蔵においても、庁鼻和(こばなわ)上杉房憲(ふさのり)の深谷城(深谷市、康正(こうしょう)二年<一四五六>ごろ)、長尾景春の拠(よ)った鉢形城(大里郡寄居町、文明(ぶんめい)八年<一四七六>ごろ)、後に成田氏の拠点となった忍城(行田市、文明十一年以前)、扇谷上杉氏の軍事拠点のひとつであった松山城(比企郡吉見町、長享(ちょうきょう)二年<一四八八>ごろ)等が築城されている。石戸城もそのひとつであったといえよう。