北本市史 通史編 古代・中世

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第6章 後北条氏の武蔵進出と岩付領

第3節 太田氏の発展と北本

河目資好と大島氏
太田氏の権力が資生から氏資にかわる時期には、河目資好が市域を支配していた。資好は永禄七年(一五六四)三月二十四日に、市域宮内周辺の地侍大島大膳亮(だいぜんのすけ)に証状を与え、大島氏の開発地を十貫文の知行地として宛行(あてが)っている。続いて資好は同八年四月にも大島大炊助(おおいのすけ)に証状を出し、宮内村十貫五〇〇文の支配権を認めて知行を与えている(古代・中世No.一九〇・一九一)。この二名の大島氏は一族と思われ、いずれも近世に宮内村に帰農した(『新記』)。前者は資正期に、後者は氏資期に出されたもので、河目氏は太田氏二代に仕えて市域周辺地域を支配した有力領主であった。この知行宛行状(あてがいじょう)は、いずれも大島氏が地侍(在地土豪)として独自に開発し、支配していた地を知行地として認めたもので、太田氏権力は郷村内の土豪を掌握して村内に支配権を浸透させていった。
大島大炊助は、すでに永禄二年三月二十四日に太田資正から判物を与えられており(古代・中世No.一八三)、その直臣であった。従って河目氏は太田氏家臣を配下に編成する上級家臣であり、大島氏はその支配下の下級家臣といえよう。河目資好は、太田氏当主の通字「資」を名のっていることや、その関係者と考えられる河目大学が天正五年(一五七七)七月十三日の北条氏政が岩付衆の軍事編成を指示した定書に、二五〇人余りの家臣を従える歩者奉行(部将)としてみえることから、太田氏の重臣であった。そして、太田資正・氏資父子の内訌のおりも氏資に従って、その地位を保障され、そのまま後北条氏に従属していた。
しかし、河目氏の一族には、資正・梶原政景父子に従って後北条氏に抵抗した者もいた。永禄九年ごろの「梶原政景家臣着座次第」(『史料雑纂』所収、家伝史料)によれば、常陸に下向して柿岡城主となった政景の家臣に河目右馬助がいる。そしてこのころ五月十八日付で、政景は古尾谷隼人佐(資正の旧領、入問郡古尾谷郷<川越市>を本貫の地とする在地領主)に判物を与え後北条氏を打倒し岩付城復帰の念願がかなったおりには、吉田・河目と同じく知行地を与えると報じ、その忠勤を命じたのであった(「埼玉県立文書館所蔵文書」)。河目氏は、太田父子の内訌にあたって一族が分裂し、太田氏の有力家臣としての性格がうかがえる。

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