北本市史 通史編 古代・中世

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第6章 後北条氏の武蔵進出と岩付領

第3節 太田氏の発展と北本

三船山合戦
房総の戦国大名里見義堯(よしたか)・義弘父子は、永禄七年(一五六四)一月の国府台合戦で、後北条氏に敗北し安房国に撤退していたが、永禄十年ころまでに再び上総国に進出し、久留里城(千葉県君津市)、佐貫城(同富津市)付近まで勢力を回復した。そのため北条氏政は、同年八月里見父子を攻撃するため、久留里城近くの上総国三船山(富津市・君津市境い)に布陣した。しかし、この合戦は後北条氏の大敗に終わったのである。
このおり岩付城主太田氏資はちょうど小田原城に来ていて、重臣の恒岡越後守以下総勢わずかに五三騎で参陣を求められ、北条軍の殿(しんがり)をつとめて里見義弘の大軍と奮戦し全滅したという。合戦の日時は明確ではないが、八月二十三日と伝えられる(古代・中世No.二〇〇・二〇一)。太田氏資の戦死を契機に、北条氏政は岩付領を直轄支配下に置き自己の領国に併合した。氏政は、岩付領を後北条氏の支城領として再編成した後、子息の氏房を太田氏資の婿養子として岩付城主に配置したのである。

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