北本市史 通史編 古代・中世

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第6章 後北条氏の武蔵進出と岩付領

第4節 後北条氏の支配と北本

越相(えつそう)同盟と北本周辺
永禄七年(一五六四)の国府台(こうのだい)合戦と、それに続く太田資正の岩付城追放によって、武蔵をめぐる北条氏康と上杉謙信の抗争は、ほぼ上杉氏の敗北が決定的となった。同九年ごろ深谷城主上杉憲盛も後北条氏に帰服したため、武蔵国内における上杉氏の拠点は、広田直繁・木戸忠朝兄弟の守る羽生城(はにゅうじょう)のみとなったのである。こうして、後北条氏の武蔵平定も目前にせまるなかで、関東南部では新たな政治変動がおこった。
当時、北条氏康は甲斐の武田信玄、駿河の今川氏真との間に三国同盟を結んでいたが信玄はこれを破棄し、永禄十一年十二月十三日駿河に侵攻したのである。今川氏真は夫人の父北条氏康を頼り、伊豆国に逃れて今川氏は没落した。そしてこの後、同十二年より駿河では後北条氏と武田氏との戦闘が開始されることになる。氏康は武田氏と上杉氏や関東の反後北条氏系大名の連合を阻止し、協力して武田氏に対抗する必要から上杉謙信と講和を結び、越相同盟を締結する。
上杉謙信は、当時信濃・上野の支配権をめぐって武田信玄と激しく戦っており、また、関東での後北条氏に対する劣勢を回復するためにもこの講和をうけいれることになる。同十二年閏五月、後北条氏が上杉方の下総国関宿城主(千葉県東葛飾郡関宿町)簗田(やなだ)晴助・持助父子の攻撃をやめることを条件に、ひとまず講和が成立した。しかし、後北条氏の北関東計略によって圧迫されていた佐竹義重・多賀谷政経(常陸国下妻城主)・太田資正(同片野城主)・簗田晴助等の上杉系諸将はこの同盟に反対であり、上杉謙信は彼ら関東の「味方中」の要望を配慮して、北条氏康と折衝(せっしょう)しなければならなかった。そのため、同盟の具体的な内容についてはその後も交渉が行われ難航した。主な争点は古河公方(くぼう)・関東管領(かんれい)の帰属問題、後北条氏の子弟を上杉謙信の養子として差し出すこと関東の国分(くにわけ)(傾土分割協定)の三点であった。
このうち、まず古河公方には足利義氏(北条氏康の甥)を、関東管領には上杉謙信を相互に認めあうことで合意がなされた。また、養子については北条氏康ははじめ氏政の二男国増丸(後の太田氏資の婿養子源五郎))を差出すことを提案したが、間もなく氏康の子息三郎に変更された(「上杉家文書」他)。

写真58 北条氏康・氏政連署条書 上杉家文書

(山形県米沢市所蔵 埼玉県県史編さん室提供)

国分をめぐる交渉は特に難航をきわめた。「上杉家文書」等によれば、謙信は当初上野国と北武蔵の六か所を上杉氏に割譲(かつじょう)するよう要求している。北武蔵の六か所とは、鉢形領(藤田・秩父)・成田領・岩付領・松山領・深谷領・羽生領であり、永禄三年から四年にかけて上杉謙信が関東に出陣したおり、上杉氏に属した領主達の支配領域であった。後北条氏は、武田信玄の関東進攻に備えて上杉氏との連合を早急に実現するため了承する姿勢を示した。しかし、まだ完全な後北条氏領国とは言えない成田・羽生・深谷三領はともかく、残りは渡す気はなかったと思われる。
しかし、上杉謙信は、関東「味方中」の中心勢力である太田資正の離反をくいとめるため、その旧領、岩付領・松山領を確保し太田氏に渡そうとしたため、この二領の帰属が重要な争点となった。謙信の強い要請を受けた北条氏康父子は、ようやく元亀(げんき)元年(一五七〇)二月十八日に、太田資正の子息梶原政景を証人として小田原城に差出すこと等を条件に、資正の岩付帰城を認めてもよいと上杉氏に伝達している。しかし、それは資正の受入れるところとならず、資正父子の岩付城復帰は実現しなかった。
後北条氏は、松山領の割譲については北条方に忠勤を励んでいる上田朝直・長則父子の本領であるとして断固拒否している。永禄十二年(一五六九)十月から十二月にかけて、謙信は太田資正・梶原政景父子に書状を送り、自身の上野出陣に参陣すれば岩付・松山問題は好転すると報じている(「太田文書」、他)。武田氏攻略の軍に太田氏を動員することで、後北条氏に圧力を加えようとした。しかし、元亀元年三月二十六日に至り、北条氏康父子は謙信に七か条の書状を送り、謙信が忍領・松山領の割譲をあくまで要求すれば、成田氏長と上田朝直が上杉・後北条両氏への猜疑心(さいぎしん)から武田信玄に内通するかもしれないと報じ、その断念をせまったのである。こうして後北条氏は、地域領主として自立をはかろうとする成田氏・上田氏の抵抗を利用して、上杉謙信の北武蔵進出を阻止した。

写真59 武田氏の禁制 久喜市 甘棠院蔵

(埼玉県立博物館提供)

両者が係争を続けている間に、武田信玄の関東進攻をゆるすことになる。永禄十二年九月に上野から武蔵に出陣した信玄の軍勢は小田原城を包囲した後、同年十月六日相模国三増(みませ)峠(神奈川県愛甲町周辺)で岩付衆等の後北条氏の軍勢を撃破した(『豆相記』、他)。そのため、元亀二年(一五七一)十月三日に北条氏康が死去したのを契機に、氏政は信玄との講和を進め、同三年一月に発動している。越相同盟の結果、上杉謙信と後北条氏に対抗していた佐竹義重・太田資正等関東諸将との亀裂(きれつ)が深まり、謙信の敗退は決定的となった。この後、北条氏政は羽生城・関宿城を攻略し、上杉謙信は両城救援のため関東に出兵、再び後北条氏と対抗した。しかし、上杉軍はさしたる成果をあげえず、天正二年(一五七四)閏十一月の関宿城開城の直前に、謙信は羽生城を破却し将兵を上野に撤退させた。このおり、謙信は帰国にあたり腹いせに武蔵各地の町村を放火しており、松山・忍・騎西・菖蒲・岩付等の城下が被害にあっている(『名将之消息録』所収文書)。
忍城主成田氏長は、羽生城攻略にあたって北条氏照・氏繁(相模玉縄城主、岩付城代))と連絡をとりながら、後北条氏の先兵として活躍する(「吉羽文書」、「結城寺文書」)。そして、その戦功により天正二年以後、北条氏政より羽生領を与えられている。すでに成田氏は、騎西領をも事実上支配しており(成田長泰の弟小田朝興と氏長の弟成田泰喬(やすたか)が騎西城主であったという)、忍領を含めて北武蔵に広大な勢力圏を成立させた。

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