北本市史 通史編 古代・中世
第6章 後北条氏の武蔵進出と岩付領
第5節 豊臣秀吉の天下統一と岩付落城
豊臣秀吉と後北条氏岩付城主太田氏房が領域支配を行っていたころ、後北条氏の領国支配は最盛期を迎えていた。北条氏政の関東制覇(せいは)に対抗していた上杉謙信が、天正六年(一五七八)三月十三日に死去して以後、それにかわって上野(こうずけ)の領国化を進め関東への介入をはかっていた甲斐(かい)の武田勝頼は、同十年三月に織田信長に滅ぼされた。ついで武田氏の領国をひきついだ信長も、同年六月二日の本能寺の変で明智光秀に殺されたため、関東周辺で後北条氏に対抗する有力大名はほとんどいなくなった。その後、北条氏政・氏直父子は織田信長の分国上野の接収を進め、常陸の佐竹義重、下野(しもつけ)の宇都宮国綱等、北関東の反後北条系大名を圧迫しながら、同十二年ごろまでに関東地方の大部分を平定する勢いを示している。そのころ、太田氏房による岩付領支配が開始され、それはこのように強大化した後北条氏の権力を背景として実現した。
写真20 後北条氏の領国
(神奈川県立博物館『後北条氏と東国文化』等より作成)
秀吉の天下統一事業は急速に進み、天正十三年七月には関白に就任するが、その直後の八月一日に再び太田資正の書状に接して返書を与え、来春には関東平定のため出陣するのでそのおりには諸事申しつけると伝えている(「潮田家文書」)。このころ、秀吉は北関東の諸大名にも関東出陣の意志を伝えており、後北条氏との対立を深めていった。全国の諸大名の多くは秀吉に服属し、後北条氏と同盟関係にあった東海地方の雄徳川家康も、同年には秀吉と講和を結んで臣従したため、北条氏政らは孤立した。
秀吉は、同十四年十一月ごろ北条氏政に「関東惣無事之儀」という私戦停止命令を出している(藤木久志『豊臣平和令と戦国社会』)。これによって後北条氏と関東諸将の戦闘は私戦とみなされ、違反した場合は秀吉から討伐を受けることになった。それは事実上、後北条氏が佐竹氏等を攻撃するのを禁止し、その臣従を要求したものといえる。同十五年五月に九州に出陣して島津義久を降服させると、秀吉はいよいよ本格的に東国の平定に着手し、後北条氏への圧力を強めていった。