北本市史 通史編 古代・中世

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第6章 後北条氏の武蔵進出と岩付領

第5節 豊臣秀吉の天下統一と岩付落城

天下の御弓箭(ごきゅうせん)
豊臣秀吉は、天正十五年(一五八七)十二月三日に関東および陸奥国の諸大名に前年と同様の私戦停止命令を出し、違反すれば死罪に処すると強硬に命じている(「秋田藩採集文書」、他)。後北条氏は秀吉との交渉にあたるいつぼう、豊臣軍の来攻に備えて急速に領国内の臨戦体制を整えていった。
秀吉の命に対応するかのように、武蔵国八王子城主(東京都八王子市)北条氏照は、この年十二月二十四日に家臣の来住野大炊助等三名に陣触(じんぶれ)を出し、「惣国」の軍勢を小田原へ参集させるとの北条氏直らの指示により、八王子城への参陣と小田原への出立を命じた。そして、今回の出陣は「天下御弓矢立の義」であるので、諸侍は特に忠勤を励まなければならないとして軍装の整備を指示している(『武州文書』多摩郡)。さらに翌十六年一月三日に氏照は、栗橋領下久下(くげ)郷(加須市)の領主久下兵庫助に印判状を与え、小山衆(久下郷を支配していた下野小山祇園城在城衆)と共に一月十六日に出陣すること、兵糧および妻子は八王子城に差し出すことを命じた。そして、今回の合戦は「天下之御弓箭(ごきゅうせん)であるから心して忠勤するように」と固く指示している。久下郷の地侍達は、遠く八王子まで妻子を指し出して軍役に奉仕しなければならなかった。これは人質であろう。小山衆等は、八王子衆とともに小田原へ出陣したものと思われる(『安得虎子』)。
岩付城主太田氏房は、北条氏照が陣触を出したのと同じ同十五年十二月二十四日に、道祖土満兼と内山弥右衛門尉に、来年は五〇日間出陣するので妻子以下をひきつれて十二月二十八日までに岩付城大構(おおがまえ)へ入り、兵糧も来年一月五日までに差し出すよう命じた(古代・中世No.二三九・ニ四〇)。
そして、氏房は同十六年一月五日には、道祖土満兼とその配下の八林(やつばやし)(比企郡川島町)の百姓および鈴木雅楽助(うたのすけ)とその配下の百間(もんま)(南埼玉郡宮代町)の百姓に、「岩付御領分」の兵糧は郷村の領主が一俵も残さず一月中に岩付城大構にさし出すよう命じ、郷内に少しでも残せばその領主は重罪に処すると警告した。兵糧は三月になったら「御内儀」を得て返却すると報じており、北条氏直の指示で緊急の城内防備がはかられたことを示している(古代・中世No.ニ四一)。文意から、この指令は八林・百間両郷以外の岩付領内の各地の郷村に出されたものと思われる。

写67 太田氏房印判状 川島町

道祖土武家文書(埼玉県立文書館保管)

太田氏房の命は、北条氏照の陣触等と発給日・内容ともほぼ同じで、各地の支城主が小田原からの指示で支城の防備や家臣の動員を推し進めたのであった。こうして豊臣軍に対する臨戦体制が敷かれ、市域周辺でも兵糧米の徴収や軍役の賦課がはかられたと思われる。

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