北本市史 通史編 古代・中世

全般 >> 北本市史 >> 通史編 >> 古代・中世

第6章 後北条氏の武蔵進出と岩付領

第1節 太田氏の登場と岩付城

長尾景春の乱と太田道灌
太田道真・道灌父子が抬頭してきたころ、山内上杉家の内部でも家宰(かさい)長尾氏の成長は著しいものがあった。享徳の乱が勃発した前後、山内家当主憲忠・房顕兄弟が若年のため、長尾景仲が山内家の権力を代行していたといわれる。享徳三年(一四五四)十二月二十七日に憲忠が足利成氏に殺された後、事実上、山内軍を指揮して成氏と戦ったのも景仲である。
寛正四年(一四六三)八月二十六日に長尾景仲が死去したため、子息の景信が山内家家宰職を継承した。そして、あいかわらず景信は山内家の中心勢力であった。
ところが、文明五年(一四七三)六月二十三日に長尾景信が死去すると、山内上杉顕定は景信の子息の景春にではなく景信の弟の忠景に家宰職を与えたため、この措置に不満をいだく景春は上杉方に反乱をおこすことになる。文明八年から十二年まで五年間に及ぶこの戦乱を「長尾景春の乱」という。景春が反乱をおこしたのは、新興勢力を抑圧しながら関東管領としての旧来の権力を死守しようとする上杉氏に対抗して自立した領主としての成長をとげようとする関東の領主たちの意向があった。その支持のもとに挙兵したのである。上杉氏の支配に不満をいだく各地の領主が景春のもとに参集した。このおり、太田道灌は顕定と景春の調停を図ろうとしたが、顕定に聞き入れられず失敗したという(「太田道灌状」)。
文明八年(一四七六)三月に、太田道灌が駿河守護今川氏の家督相続をめぐる内紛を鎮圧するために同国に下向すると、景春は同年六月、武蔵国鉢形城(大里郡寄居町)を本拠地として上杉氏攻撃を開始した。景春は顕定の五十子(いかつこ)の陣を急襲、翌年一月にも同地を攻略したため、上杉氏はもちこたえられず上野に敗走した。そのため、北武蔵一帯は景春の勢力下に置かれた。
相模・武蔵の国人領主のなかには、上杉軍の敗北をみて景春を支持して挙兵するものが続出した。相模の溝呂木(みぞろぎ)氏・越後五郎四郎・金子掃部助(かもんのすけ)や、武蔵国豊島郡を本貫の地とする有力領主豊島泰経・泰明兄弟等が各地の城郭に籠(こも)って蜂起(ほうき)した。このおり、長尾景春に味方した国人領主は上野・武蔵・相模・甲斐・越後の五か国の者計ニ一名(上州一揆は集団)にのぼった(『県史通史編二』第三章第一節)。市域周辺の領主としては、比企郡大串(吉見町)を本貫の地とする国人領主大串弥七郎をはじめとして、長井城(大里郡妻沼町)の長井左衛門尉、毛呂城(入間郡毛呂山町)の毛呂三河守等が知られる。
このように各地の領主が挙兵したため、上杉氏は潰滅的(かいめつてき)な打撃を受けた。この上杉氏の危機を救ったのは太田道灌であった。道灌は、文明九年三月には早くも景春に属した諸将の攻略を開始している。まず、三月十四日に江戸城をたって相模に進撃した道灌は溝呂木氏や越後五郎四郎等を攻め、まもなく同国内における長尾景春勢力の鎮圧に成功している。それと併行して道灌は、景春与党の豊島一族を討滅し、豊島泰経・泰明兄弟は同年四月から翌十年一月ごろまでの間にその攻撃を受けて没落した。豊島氏は江戸城周辺の有力領主であり、その滅亡は江戸城主としての太田氏の権力確立の上で重要であった。
こうした相模・武蔵南部の掌握とあわせて、道灌は北武蔵・上野・下総の各地に転戦し縦横の活躍をしている。そして各地で長尾景春の軍勢を討破り、秩父地方における景春の最後の拠点日野城(秩父郡荒川村)を文明十二年(一四八〇)六月二十四日に陥落させたため、四年間にわたる長尾景春の乱も終了した。このおり、市域周辺の成田の陣(熊谷市)、羽生の峰(羽生市)等で合戦があり、道灌は成田にいる景春攻撃のため比企郡井草(いぐさ)(川岛町)にまで着陣している。この他、北武蔵の各地で戦闘が行われた。
また、忍城主(行田市)成田親泰は、太田道灌に属していたが同十一年十二月に太田道灌が児玉郡に進出したおりに「忍城の雜説」が聞こえてきたので、道灌は急ぎ大里郡久下(くげ)(熊谷市)に着陣してこの動きをおさえたという。成田氏の一族や家臣のなかに景春の攻勢に動揺するものがいたことがわかる。この乱の過程で道灌は、関東各地の領主達を掌握し、彼らに影響力を行使しながら勢力を拡大していった。

写真45 太田道灌木像 東京都静勝禅寺蔵

(浦和市行政資料室提供)

道灌は、関東管領山内上杉顕定に対して、武蔵国の有力国人である赤塚城主(束京都板橋区)千葉自胤、蕨城主(蕨市)渋川義鏡、世田谷城主(東京都世田谷区)吉良成高等の戦功をあげて、暗に彼らを冷遇していることを批判している。彼らは、江戸城に出陣してその防備にあたるなど道灌に協力しており、太田氏が山内上杉氏の権力を代行し、彼ら有力国人をしだいに配下に従えてきた様子をかいまみることができる。この他、市域周辺の成田親泰(忍城主成田氏中興の祖)、上田上野介(扇谷上杉氏の重臣で後の松山城主上田氏の関係者)、大串弥七郎、毛呂三河守等にも便宜(べんぎ)を与えており、この合戦を通じて国人領主に影響力を強めながら成長しつつあった(「太田道灌状」)。
日野城落城後も長尾景春は延命し、伊豆・相模の戦国大名伊勢長氏(北条早雲)等と結んで上杉氏に反抗、挙兵しているがさしたる成果をあげられず、永正十一年(一五一四)八月二十四日に没した。景春の子息景英は、上野国白井(しろい)城(群馬県北群馬郡子持村)に復帰し、その子孫は戦国末期までこの地の地域的領主として存続する(勝守すみ『長尾氏の研究』)。

<< 前のページに戻る