北本市史 通史編 古代・中世

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第6章 後北条氏の武蔵進出と岩付領

第5節 豊臣秀吉の天下統一と岩付落城

大島大炊助(いいのすけ)等の還住

写真72 太田氏房供養塔

佐賀県相知町医王寺(岩槻市教育委員会提供)

小田原開城の後、太田氏房は兄北条氏直等と共に高野山に蟄居(ちっきょ)したが、後に許されて豊臣秀吉の朝鮮出兵に従い肥前(ひぜん)唐津(佐賀県)におもむき、文禄元年(一五九二)に名護屋(なごや)城(佐賀県東松浦郡鎮西町)の陣中で病没したという。氏房には、家老の細谷資実以下一六〇名の家臣が従っており、そのおり資実をはじめ十二名が殉死したと伝えられる(佐賀県東松浦郡相知町、医王寺由緒書・位碑、他)。小田原籠城に従った多くの岩付衆が最後までともに行動していたのであろう。資実は比企郡井草(川島町)の領主細谷資満かその関係者である。
後北条氏領国の大半は徳川家康に与えられ、 市域もその支配下に置かれた。徳川氏は、後北条遺臣のうち有力者は家臣に、下級武士 (地侍等)は村役人や開発地主にとりたてて、その懐柔(かいじゅう)をはかっている。氏房の家臣伊達房実・板部岡房恒や宮城氏・春日氏等も武士として新しい社会を迎えている。
これに対して、市域を支配した在地武士の多くは所領の農村に土着し、有力農民として再出発をとげたようである。岩付城が落城してまもない天正十八年六月一日に城攻めを指揮した浅野長吉は、鴻巣郷の大島大炊助・同大膳亮・矢辺新右衛門・矢部兵部・小川図書の五人に、それぞれの居住地にたちかえり耕作をするように、それに対して妨げるものがあれば申し出るようにと命じている(古代・中世No.二五六)。彼らは鴻巣郷の各地に土着する在地武士であり、その居住地への帰農を指示されたのである。
大島大炊助の子孫は近世後期に宮内村(北本市)に土着していた旧家勇蔵で、中世文書四点を所蔵していた(表20)。永禄二年(一五五九)三月二十四日より天正十八年六月一日にかけて太田資正や河目資好等から出されたもので、大炊助は岩付太田氏・後北条氏の四代(資正・氏資・氏政・氏房)に仕えた宮内の開発地主で領主でもあったことがわかる(古代・中世P四四〇~四四三)。宮内の大島隆三家にそのうちの二点が現存しているので、その後裔(こうえい)であろう。大島大膳亮は、その一族と推定され、永禄七年三月二十四日に河目資好から知行地を与えられている(本章第三節)。その子孫は大炊助と同じく宮内に還住した。
大島氏とともに帰農した矢部氏は、中下谷村・北下谷村(鴻巣市)の旧家として知られるので同地に還住したことが考えられる。鴻巣郷周辺に土着していた地侍「鴻巣七騎(こうのすしちき)」の子孫と伝え、寛永の検地帳等を伝存していたとの伝承から、村役人としてこの地に定着したことがうかがえる(『新記』)。市内荒井の矢部洋蔵家には元和六年(一六二〇)の検地帳五冊が現存しているので、その関係者が荒井村の村役人にも起用されたのではなかろうか(近世No.六八~七二)。


表20 足立郡宮内村・旧家勇蔵(大島氏)所蔵文書
番号 年 月 日文書名 宛所 内 容 出 典  
※1 永禄2. 3. 24 太田資正判物 大島大炊助 郷内開発命令 資料183 
永禄8. 4河目資好証状写 大島大炊助 宮内村知行宛行 〃 191
天正5. 3.11 助次郎書状写 鴻巣宮内百姓中 荒地開発奨励  〃 213
※4(天正18)6.1 浅野長吉証状 鴻巣郷大島 大炊助外4人  在所へ還住命令  〃 256 

注 ※は北本市宮内、大島隆三氏所蔵文書 出典は『北本市史古代・中世資料編』の資料番号を示す
   (『新編武蔵風土記稿』より作成)

市内深井を本貫の地とする領主深井氏も鴻巣郷に還住している。図17の「系図」(本章第一節)によると深井対馬守(つしまのかみ)景吉は、徳川家康より鴻巣宿宮地(鴻巣市)に数町歩を与えられ郷上になったという。開発地主としての性格がうかがえよう。また子息で太田氏房の家臣として活躍した藤右衛門尉好秀は、松平信綱(江戸幕府初期の重臣、忍・河越藩主)に仕官し子孫は武士となったため、宮地の遺跡は弟の正家が継いだと伝えられる。これは史実ではないが、氏房の中堅家臣である好秀が武士として近世社会に定着した経緯を反映していることも考えられよう。いつぽう戦国時代に太田氏房が深井氏にあてた文書二通(古代・中世No.二四七・ニ四八)は、上生出塚村(かみおいねづか)(鴻巣市宮地と深井の間)の旧家源右衛門が所蔵しており、深井氏の一族は当地にも帰農した(古代・中世P四四四~四五三)、『新記』)。なお、葛飾郡高久村(北葛飾郡吉川町)の旧家友之助家は深井景吉の六男景広の子孫で、天正十八年(一五九〇)に当地に新田を開いて帰農したという(小暮正利「戦国武士の末裔と近世村落」『戦国の兵士と農民』)。当地は本拠深井からはかなり遠隔ではあるが、深井氏の活躍のほどがうかがえよう。
先述したように、江戸時代に市域周辺に居住していた旧家の子孫として、かって鴻巣周辺に土着していた地侍「鴻巣七騎」の伝承がある。このうち、大島大膳亮(久家・重富父子)・深井対馬守景吉・矢部某・小池長門守(久宗)は実在の人物であり、加藤修理亮宗安も居住していた可能性が髙い(本章第三節)。鴻巣郷一帯に土着していた岩付太田氏の家臣逹が帰農し、再出発をとげていった様子を伝えている。

写真73 浅野長吉書状 大島隆三家蔵

写真74 宮内日氷川神社 宮内

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