北本市史 通史編 古代・中世

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第6章 後北条氏の武蔵進出と岩付領

第1節 太田氏の登場と岩付城

市域の在地領主深井氏

図17 深井氏略系図

(『市史古代・中世』P四四四より作成)

深井氏は、前述の長尾景春の子孫と伝えられている。「深井氏系図」(古代・中世P四四四~五三)によれば、景春の次男で白井城主景英の弟景行は、初め景忠と称し、関東管領山内上杉憲政の配下となり、武蔵の大宮・鴻巣辺を与えられ鴻巣に住した。そして、憲政が小田原の後北条氏の圧迫を受けて没落して後は、越後の長尾景虎(上杉賺信)の家臣となり、各地に転戦して戦功をあげたという。そして、景行の子息景孝は、鴻巣郷深井村で生まれたため本名長尾六郎次郎を深井六郎次郎と改め、天文二年(一五三三)四月三日に没したと伝えられる。以後、子孫は深井に土着して岩付城主太田氏の家臣になっている。深井氏当主は、近世に至るまで代々白井長尾氏当主の通字「景」(景仲・景信・景春・景英)を名のっており(図17)、長尾景春の子孫との意識が示されている。ただし、初代の景行だけには没年や法名(ほうみょう)が記されていない等疑問の点も多い。
しかし、長尾景春は各地の領主を糾合(きゅうごう)して上杉氏に対抗し、大串弥七郎を配下に従え成田の陣や長井城で挙兵する等、市域周辺にも密接な関係を持っていた。また、白井長尾氏は、景春の父景信まで数代にわたり、守護として上野・武蔵両国を支配した山内上杉氏の家宰職を世襲し、上野と接する市域周辺の北武蔵にも何らかの影響力を持っていたものと考えられる。これらのことより、深井氏の伝承は長尾景春が市域の在地武士にも何らかの影警力を持っていた史実を反映している可能性がある。

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