北本市史 通史編 古代・中世

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第6章 後北条氏の武蔵進出と岩付領

第2節 後北条氏の武蔵進出

後北条氏の抬頭と岩付城
駿河守護今川氏に仕え、同国興国寺(こうこくじ)城主(静岡県沼津市)であった伊勢新九郎長氏(北条早雲)は、延徳(えんとく)三年(一四九一)十月十一日に、堀越公方足利政知(まさとも)の遺子茶々丸を討ち伊豆国を占領した。そして両上杉氏の対立・抗争をたくみに利用しながら、その間隙(かんげき)をついて関東進出を開始した。明応(めいおう)四年(一四九五)九月には、小田原城を占拠して相模攻略を開始し、永正(えいしょう)十三年(一五一六)までに同国を平定した。北条早雲は、この間永正三年には相模国足柄下郡で検地を実施する等、着々と戦国大名としての地歩を築いていった。なお戦国大名の北条氏は、鎌倉幕府執権北条氏と区別するため後北条氏という。

図18 後北上氏略系図

○数字・歴代当主の順位
=は、養子関係
氏繁以下は、玉繩城主
(『寛政重修諸家譜』所収「北条系図」等より作成)

このころ、関東地方では後北条氏の進出に対抗するため両上杉氏の抗争はようやく終了したが、それに代わって古河公方家の内註(ないこう)がおこり、足利政氏と子息高基の抗争が展開されていた。両者の争いはすでに永正三年からみられ、同七年以降本格化し各地で戦闘が行われた。その対立の原因は、衰退しつつある古河公方の勢力回復をはかるため、政氏が山内上杉氏と連係しようとしたのに対して、高基は北条早雲の協力を得ようとしたためであった(『小山市史通史編I』中世第三章)。そして、高基に圧迫され、古河から、小山祇園(おやまぎおん)城(栃木県小山市)に移っていた政氏は敗北が決定的になり、同城にも居られなくなって永正十三年(一五一六)十二月二十七日に岩付城に移っている。そして同十五年ごろまで同城にとどまり、その後久喜の甘棠院(かんとういん)に隠棲(いんせい)した(佐藤博信「足利政氏とその文書」『足利政氏文書集』)。これは岩付城主太田資家が、祇園城主小山成長とならんで足利政氏の重要な支持勢力であったことを伝える。ただしこの措置には、資家の主家扇谷上杉朝良の意志が働いていたともいわれている。岩付太田氏は再び上杉氏の重臣として成長しつつあったといえよう。上杉朝良・太田資家は、後北条氏の相模進出に対抗するため、没落しつつある政氏を支援したのであろう。

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