北本市史 通史編 古代・中世

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第6章 後北条氏の武蔵進出と岩付領

第2節 後北条氏の武蔵進出

太田資頼の分国支配
太田資頼の父資家は、いつごろ岩付城主になったのかは明確ではないが、大永二年(一五ニニ)一月十六日に没している(比企郡川島町養竹院、宝篋印塔)。資家の跡を継いだ資頼は法名を道可(どうか)と号し、没年は天文(てんぶん)五年(一五三六)四月二十日とも、天文十五年四月二十日ともいわれる(川島町「養竹院過去帳」「太田潮田系図」)。資頼は、子息資正とともに後北条氏の武蔵侵攻に対抗し、扇谷上杉氏を補佐して縦横の活躍をし、岩付太田氏の全盛期を築いた。
大永五年(一五二五)、扇谷上杉氏は越後の長尾為景に北条氏綱の武蔵攻略を報じ、関東救援を要請した。太田資頼は、上杉朝興・三戸義宣と共に為景に書状を出しており、上杉氏の最も有力な重臣であった。

写真49 太田道可判物 川島町 道祖土武家文書

(埼玉県立文書館保管)

資頼は、年不詳八月二十一日付で、比企郡三保谷(みおのや)(川島町)の在地土豪道祖土図書助(さいどずしょのすけ)に判物(はんもの)を与え、「亡父の代より此方事、 走り廻り候上、今度に於ても忠功を抽(ぬき)んじ候間」として、居在家一間、書記在家半間、河内在家一間、太郎三郎在家一間、孫左衛門在家半間、合わせて四間を給分として与えた。そして、公事(年貢以外の税)については、他の百姓と同じく負担するように命じている(「道祖土家文杏」)。道祖土耕氏を百姓のまま、その課税の一部を給分として家臣に取りたて、合戦に動員していた。しかも亡父の代よりという文言から、道祖土氏は、父資家の時代から家臣であったことがわかる。資頼は、享禄三年(一五三〇)十月二十六日にも、道祖土図書助に判物を発給している(写真49)。そして、申請にまかせて居屋敷分等六軒よりあわせて二九貫五〇〇文の年貢を給分として与えている(古代・中世No. 一六九)。このように太田氏は、農業経営に密着する零細な在地土豪をそのままの状態で家臣団に編成していった。それは、この時期の地域領主の一般的なあり方であった。

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