北本市史 通史編 古代・中世

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第7章 北本周辺の中世村落

第2節 庶民の信仰

信仰と石造物

図24 東光寺 年不詳十三仏種子板碑

平安時代末から鎌倉時代にかけての変動期に、仏教界でもすぐれた宗教家が綺羅星(きらぼし)のごとく輩出した。浄土教系では浄土宗の法然、浄土真宗(一向宗)の親鸞(しんらん)、時宗(時衆)の一遍智真( いっぺんちしん)。禅宗系統では臨済(りんざい)宗を中国から伝えた栄西(えいさい)、曹洞(そうとう)宗を伝えた道元。また、法華(ほっけ)宗(日蓮宗)を開いた日蓮などの宗祖たちである。彼らは鎌倉新仏教と呼ぶ宗教改革を進めた名僧たちである。彼らは民衆に向けて強力に布教活動を開始し、そのため仏教は古代にもまして庶民に浸透し、室町時代には様々な民間信仰が生まれ、庶民の宗教活動は活発化した。そうした信仰のいくつかは石造の塔を造る信仰を伴っていた。武蔵国でも現在の埼玉県域は、秩父地方で産する緑泥片岩(りょくでいへんがん)を利用して、偏平な石塔を生み出した。今日板碑と呼ぶ石塔である。鎌倉時代中期に上級武士層が造立を始め、やがて庶民の間でも造立するようになった。墓石として造立する一方、民間信仰の塔としてたくさん造立されたのである。民間信仰とは明瞭な宗派がなく、教団などの組織をもたずに民間で信仰された様ざまな宗教や信仰である。古代には貴族層に信仰されていたものが、徐々に民間レベルに浸透してきたのである。石造物だけでは限界があり、宗教行事の内容やその形態までは知ることができない場合が多いが、断片からもどの様な宗教が信仰されたかを窺い知ることは可能である。
市域の板碑は、貞永(じょうえい)二年(一二三三)銘を最古とし、永禄十口 (一五六七〜七〇)年銘を最新とするほぼ三三〇年間の三八六基が残っている。南北朝期までは鎌倉新仏教との係わりで理解した方が良い板碑が多い。板碑の主尊はキリーク(阿弥陀如来)が最も多い。阿弥陀如来は、宗派を越えた信仰対象であるために宗派を特定できないが、浄土教系の浸透に起因する割合が多いであろう。石戸宿の東光寺に建長(けんちょう)三年(一二五一)銘と伝える阿弥陀三尊板碑があり「設我得仏 十方衆生  至心信楽 欲生我国 乃至十念 若不生者 不取正覚」の偈(げ)がある。偈から浄土真宗にょる造立の可能性が高いと説かれている。南無阿弥陀仏の六字名号が刻まれているのは時宗による造立である。市域では深井・寿命院の元亨(げんこう)年(一三二一〜二四)銘板碑はじまり正中(しょうちゅう)年(一三二四〜二六)銘、延文(えんぶん)五年(一三六〇)銘、貞治(じょうじ)三年(一三六四)銘(古代・中世P三六一)の四基と年不詳一基と計五基の名号板碑がある。正中年銘の一基は書体が異なり不確実だが他の四基は時宗による造立である。深井の寿命院には造立年不詳だが題目板碑がある。今はほんの断片となってしまったが幅四〇センチ、往時の高さはニメートル近くある立派な板碑であったはずである。様式からは鎌倉時代中期の造立であり、日蓮宗による造立としては県内では早い造立例である。主尊がバク(釈迦如来)の板碑は、造立年によって二つのグループに分けられる。一つは明徳(めいとく)年(一三九〇〜九四)以前のグループであり、もう一つは天文(てんぶん)年(一五五二〜五五)以降のグループである。この二つのグループには一四〇年余のひらきがあり、市域では明瞭にニ時期に分割が可能である。前者は禅宗による造立の可能性が高い。以上は庶民の造立ではなく武士および土豪層による造立であるが、鎌倉新仏教との係わりで理解できる板碑でもある。
市内で最初に確認できる民間信仰は十三仏信仰である。本宿の多聞寺には寛正(かんしょう)六年(一四六五)銘の十三仏板碑がある。主尊はアーンク(胎蔵界(たいぞうかい)大日如来)で、「帰命月天子 本地大勢至 為度衆生故 普照四天下」の偈があり、月待信仰と習合している。その他に石戸宿の東光寺・中丸の遍照寺・高尾の阿弥陀堂に所在するが、いずれも造立年が不詳である。阿弥陀堂の十三仏は阿弥陀三尊のまわりに月輪形に十仏を配した板碑である。本来十三仏信仰は亡くなった人の命日に十三仏画の軸などを掛け、故人を偲(しの)ぶものである。近世でも数は少ないが十三仏を墓地に建てている。死者を追善するためであろう。板碑も同様の主旨で建てたものと理解する。近世の紙本十三仏画がかなり残されている。信仰は熱心に続いているが屋外に塔や石仏を建てる信仰はほとんど消失したと言えよう。

図25 寿命院 大永7年銘    阿弥陀三尊来迎図像板碑

次いで出現するのは月待信仰である。石戸宿の横田家の延徳(えんとく)四年(一四九二)銘、本町の地蔵堂の明応九年(一五〇〇)銘(古代中世P三七四)、本宿の多聞寺の寛正六年(一四六五)銘、石戸宿・東光寺の年不詳の四基がある。横田家板碑には「月待供養」、地蔵堂板碑には「月待供養」とさきの「帰命月天子・::.」という月待特有の偈、多聞寺板碑と東光寺板碑には偈が刻まれていることによって月待板碑であることが判別できるのである。阿弥陀三尊を主尊とした月待だけの板碑と十三仏信仰を習合した板碑との二様式があり、信仰形態が揺れ動いてまだ固まっていないことを看取できる。近世に入ると荒川左岸地域では月待の信仰はあまり活発には展開されていないようである。
次いで現れるのは念仏信仰である。下石戸下の小川柳瀬両家墓地の文明十五年(一四八三)銘の阿弥陀三尊板碑(古代・中世P三七八)と、深井の寿命院の大永七年(一五二七)銘の阿弥陀三尊来迎図像板碑である(古代・中世P三六〇)。文明十五年銘板碑には「念仏ロロ」、大永七年銘板碑には「念仏供養」と刻まれている。市域で唯一の図像板碑である。念仏信仰は近世に熱心に信仰され市域では現在も百万遍の講が続いているし、数珠だけが残っている地域もある。
最後に現れるのが庚申信仰である。寿命院の天文廿四年(一五五五)銘の二基、高尾の加藤家の永禄二年(一五五九)銘、高尾の妙音寺の永禄十口年(一五六七〜七〇)銘の四基である。いずれも「申待供養」と刻まれている。先に主尊バクの板碑を二つのグループに分けたが、天文年間(一五三二〜五五)以降はすべて庚申信仰による造立である。またほんの断片であるが廿一仏板碑が一基ある。これも庚申信仰による造立である。庚申待板碑は上尾市と鴻巣市にはなく、桶川市に一基あるだけで、市域の五基は濃密分布といえる。
東京都八王子市片倉の竜光寺の月待板碑に描かれた天蓋(てんがい)を「片倉式天蓋」と命名し、詳細に追求した織戸市郎は、板碑を伝播(でんば)したのは石工であると考察した(織戸市郎「民問信仰板碑の系譜(一)」『日本の石仏・二号』ー九七七)。また、東光寺の十三仏板碑に描かれた天蓋と同一様式の天蓋は、東光寺例を含めて県内に六基がある。直接東光寺のモデルとなったのは、東松山市上唐子(かみからこ)の共同墓地の年不詳月待板碑の可能性が高いが、ル—ツは最も古い比企郡都幾川村多武峯(とうのみね)慈眼坊の長禄(ちょうろく)五年(一四六一)銘の図像板碑である。月待の行事あるいは板碑造立にあたっては、慈眼坊と係わる修験者が加持祈祷(かじきとう)をおこなったと推察したことがある(下村克彦『埼玉考古』一九号 一九八一)。 板碑そのものの様式は石工が伝えることもあったが、信仰の教義や行事の諸式は、こうした修験者や遊行の聖(ひじり)が村むらへ伝道したのであろう。また、高尾の妙音寺年不詳板碑の天蓋は、片倉系につながる傍系の天蓋である。川越市は片倉系天蓋の分布域であり、さきの都幾川村あるいは東松山市といい、 荒川右岸地域との関連や二十一仏板碑のように越谷方面へ関連する板碑など、市域の板碑は周辺地域と深く関連しながら造立されたのである。

図26 深井薬師堂 暦応5年銘宝篋印塔基礎

明徳年間(一三九〇〜九四)以前の釈迦を主尊とした板碑は規模が小さく、しかも上級武士の造立ではなく庶民もしくは庶民に近い半農の武士造立になるものかもしれない。月待・念仏・庚申待の板碑は大勢の人々が共同で造立している。藤木久志が『東松山市の歴史上巻』で分析した結果、結衆板碑から戦国期に交名板碑へ変化することを明瞭に した。それは「ー結衆〇〇人」という共同の表記から、講員全員の名を表記するように変化したのである。それだけ個人が表面に出てきたのである。市域の板碑に「結衆」の文字はないが、深井の薬師堂の暦応(りゃくおう)五年(ニニ四二)銘宝篋印塔(ほうきょういんとう)の基礎に「ー結衆等」と刻まれている(古代・中世P四〇九)。名前そのものを見ると、石戸宿の横田家の月待板碑には一五人の名前がみられ、内一人は法名であるが女性が混じるようになっている。さらに大宮市の資料では、室町後期には女性も実名で登場するようにすらなっている。講の構成員として女性が加わってきたことの証であるが、板碑に刻名するに際して、俗名の男性群に対して女性は法名にとどまっていたものが、やがて実名を表記するようになったということである。社会生活全般に女性が進出してきたのであろう。その他『古代・中世資料編』では「早来迎」「連碑」「石憧」についても民間信仰の項で解説しておいた。参照していただければ幸いである。

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