北本市史 通史編 古代・中世

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第7章 北本周辺の中世村落

第1節 村落と農民生活

岩槻道と松山道
市域には、鎌倉街道の他にも中世以来の古道である岩槻(付)道と松山道が通っていた。戦国時代の石戸城は岩付城の有力支城であり、また、一時太田資正の属城であった松山城(比企郡吉見町所在)にも近接していたため、岩付城から松山城に至る中継点をなした。そのため、石戸宿付近には岩付から松山へ抜ける古道が古くから開けていたものと考えられる。もともとこの三城は、いずれも扇谷上杉氏の属城として築かれたもので、当時の街道にそって有機的に結びつけられていたのであろう。『新記』によれ.は、市域周辺には岩槻へ向かう古道が、上加納・下加納(桶川市)・坂田(同上)に、松山へ向かう古道が荒井(北本市)・滝馬室(鴻巣市)を通り、大半は鴻巣との間を往来していた。
岩槻道は鴻巣宿より南下し、市域の本宿を経て東南の加納・坂田へ通じていた。この道は鴻巣市人形町より市内の宮内・朝日を経て北足立郡伊奈町・蓮田市へ抜けており、鎌倉街道の道筋とほぼ一致しているのでその間道と考えられる。石戸城の城兵や市域周辺の在地武士は、この道を通って岩付城と往来したのであろう。
松山道は『新記』によれば、鴻巣より松山へ向かう道で鴻巣市滝馬室と市内荒井で荒川を渡河していたという。
永禄六年(一五六三)二月初め、後北条氏の攻擊から松山城を守るために関東に出陣した上杉謙信は、石戸に着陣したが、松山城が開城したため、やむをえず岩付城に退散した(古代・中世No一八七・一八八)。当時より石戸から松山城に至る軍道が開かれ、岩付城への道も通じていたことがわかる。

写真76 岩槻街道 朝日・北中丸

写真77 東松山・桶川線 下石戸上


市域を通っていた間道は、近世以降に各地に建てられた石造遺物(庚申塔等)によっても確認される。岩付道が二か所、松山道が二か所に刻まれている(『雑木林のあるまち』P三〇)。後北条氏に対抗して松山城を確保した岩付城主太田資正は、この道を往来し岩付から松山へ軍兵を移動させたのであろう(比企郡川島町・養竹院所蔵、「太田資武状」)。

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