北本市史 通史編 古代・中世
第7章 北本周辺の中世村落
第1節 村落と農民生活
市と祭文中世になると、農業生産力の向上や貨幣経済の発展等により、農産物や生活必需品を消費地に供給する市も、在地領主の居館を中心に各地に普及していった。室町時代ごろまでの市は、一〇日に一度ずつ月三回開催される定期市が多い。市場は、このころまでは領主の居館周辺等の限られたところにしか存在しないが、戦国時代になると戦国大名後北条氏の経済政策等により各地の農村に広範に分布するようになる。
このころの市場の盛況は、『武州文書』大口村(岩槻市)武助所蔵の「市場之祭文」によってうかがうことができる(古代・中世No一五一)。それは、各地で催される市で市祭が行われる際に、 修験者等が神前に捧げる祭文に続いて、 当時武蔵東部から下総西部にかけて所在した三十三か所の市名を記したもので、延文(えんぶん)六年(ニ二六一)九月九日に成立した原本を、応永二十二年(一四一五)七月二十日に書き写したと付記されている。
これらの市の所在地は、足立郡・埼玉郡を中心として地域的まとまりを示し、それはおおむね戦国期における岩付太田氏の勢力圏と一致することや、当時の市場商業の発達の程度から、南北朝・室町期の市ではなく、戦国期に後北条氏が支配した岩付領周辺地域の市を記したものではないかとも考えられている(豊田武『増訂中世日本商業史の研究』、他)。また、大宮氷川神社に関係する修験者(しゅげんじゃ)の関係範囲ともいわれる(杉山正司「中世末武蔵東部の市における諸問題」『埼玉県立博物館紀要』七。この祭文に記されている市域周辺の市は、表21のとおりである。一四か所ほどが足立郡や岩付城・忍城等の周辺に分布している。とりわけ、鴻巣、いっきほり(桶川市・上尾市付近か)、比企郡井草(いぐさ)(推定、川岛町)の市は、市域に近接している。
表21 北本市周辺の「市場之祭文」所載の市
市名 | 現行地名 |
---|---|
武州河越庄古尾屋 | 川越市古谷本郷 |
武州崎西(きさい)郡黒浜 | 蓮田市黒浜 |
武蔵州太田庄南方はさま | 北埼玉郡騎西町羽佐間 |
武州崎西郡末田 | 岩槻市末田 |
武蔵州太田庄野田 | 南埼玉郡白岡町上野田・下野田 |
武蔵州崎西郡行田 | 行田市行田 |
武州足立郡かう之す | 鴻巣市鴻巣 |
武州足立郡いっきほり | 桶川市鴨川・上尾市井戸木付近カ |
武州伊草 | 比企郡川島町伊草または八潮市伊草 |
武州福こふりかゝさねこふ道 | 岩槻市金重 |
武州大(太)尽庄たかゆわ | 南埼玉郡白岡町高岩 |
武州崎西郡岩付ふち宿 | 岩槻市岩槻 |
武州崎西郡岩付くほ宿 | 岩槻市岩槻 |
武州崎西郡平野宿 | 蓮田市上平野 |
(『市史古代・中世№一五一より作成』)
戦国時代には、市は月に六日間、五日に一度ずつ決まった日にたてられる六斎市(ろくさいいち)(定期市)となり、後北条氏や配下の支城主によって各地にたてられている。埼玉県域では、高萩(たかはぎ)新宿(日高市、市日、二・七)、白子郷新宿(和光市)、井草宿(比企郡川島町、市日、一・七)が知られる。いずれもその郷村は「宿」と称され、街道の宿場等に開設されて商業集落としての発展がはかられていった。このうち比企郡井草宿では、岩付城主太田氏房が天正十五年(一五八七)六月十六日、重臣の伊達房実に「井草宿市之日之事」という指示を出し、毎月一日・七日・十一日・十七日・二十一日・二十七日に開催することを定め、三か年間諸役(本年貢以外の課役)を免除してその保護育成をはかっている(『武州文書』比企郡)。この他、松山城下・松山本郷や浦和市(いち)等、各地で多数の市が開催されているがその多くは六斎市であろう。六斎市は、市日の異なる市が約六〜一ニキロメ —トルの間隔で近接する郷村に開設され、五つの市あわせて六斎市場圏を成立させ、その地では毎日どこかで市が開かれるように構成されていたと考えられている。そして、市場を巡り交易を行う商人は支城領の範囲で統制され、六斎市は支城領域経済圏のもとに編成されていた(藤木久志『戦国社会史論』他。
市域周辺の六斎市には「市場之祭文」にも記されている鴻巣の市がある。それは、毎月四・九の日に開催され、近世の鴻巣宿には上市場・中市場の小名もある。この市は、周辺の他の市との関連性が考えられ、比企郡ではあるが、岩付領として太田氏房の統制下にある井草宿の市(二・七)はそのひとつであったかもしれない。
近世には、市域の石戸宿でも、三月二日・五月二日・七月十一日・十二月二十七日の年四回、市が開かれていた。雛市や暮市等の年中行事に関連する市であろうが、石戸宿が鎌倉街道の宿場で石戸城下であったことから、周辺の市に関係する六斎市の名残りであることも想定されよう。石戸宿には、横田市場の小名も残されている。また、市の東部には古市場村という集落があり、かつて市場が開かれていたことに由来する地名であるという(『新記』)。
市(いち)では、貢納品やその他の特産品を連雀(れんじゃく)商人(行商人)等を通して消費地に販売していた。戦国時代の古文書によれば、市場等で取引された商品は「酒・塩あい物・木綿・兵糧米(ひょうろうまい)・穀物」等一九品目に及んだ(井上恵一「武蔵における後北条氏の商莱統制」『関東中心戦国史論集』)。この六斎市は、後北条氏や支城主の経済政策等により、貢納品を換金し、年貢の銭納を促進する市場として開設されたものである。後北条氏は、農民の成長等により各地に成立してきた地域的経済圏を、支城領域経済圏として再編成して掌握するために市場の保護と統制をはかったのである。