北本市史 通史編 近世

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第1章 江戸幕府の成立と北本市域

第1節 徳川家康の関東入国と支配体制

1 家康の関東入り

天正十八年(一五九〇)七月、北条氏を降して小田原城に入城した豊臣秀吉は、徳川家康に三河・遠江(とおとうみ)・駿河(するが)・甲斐(かい)・信濃(しなの)の五か国にまたがる所領から関東へ の国替えを命じた。 家康が与えられた新所領は、 北条氏の支配下にあった相模(さがみ)・武蔵・上総(かずさ)・伊豆の四か国、上野(こうずけ)・下総(しもうさ)両国の大部分と下野(しもつけ)国の一部分であった。秀吉は家康に対して論功行賞として、関東を領知させたのであるが、真の狙いは秀吉政権の所在地である畿内(きない)からの遠隔地に家康を配置替えするためであった。家康は小田原城攻めの先鋒隊であり、すでに徳川氏の拠点であった岡崎城や浜松城などには、秀吉の部将たちが詰めていたので、国替えの命令に服さざるを得ない危急の場に追いこまれていたといえる。後年、徳川幕府が編纂した『徳川実紀』には「今度関東平均の大勲(たいくん)此右に出るものなければとて、北条が領せし八州の国々悉(ことごと)く君の御領に定めらる(秀吉今度北条を攻亡し、その所領ことごとく君に進らせられし事は、快活大度の挙動に似たりといへども、其実は当家年頃の御徳に心服せし駿遠三甲信の五国を奪ふ詐謀なる事疑なし)」と述べて、さらに関東の地については、「又関東は年久しく北条に帰服せし地なれば、新に主をかへば必一揆蜂起すべし、土地不案内にて一揆を征せんには必敗べきなり、其敗に乗じてはからいざまあるべしとの秀吉が胸中、明らかにしるべきなり」と家康流の用意周到な見方が述べられている。
翌八月一日、家康は正式に江戸城を居城とすべく入城した。これを関東入国、あるいは江戸御打入りともいう。先の『徳川実紀』は「八月朔日(さくじつ)江戸城に移らせ給ひ、万歳千秋天地長久の基を開かせ給ふ」と称えている。八月一日は「八朔」といわれ、古来農民が新穀を贈答して祝う日、田の実(み)の節句であり、やがて君臣間に、室町時代には朝廷と幕府の相互の間にも物を下賜したり献上したりする儀式の日であったが、家康の江戸入城以来、八朔はその記念日であることも重なって、近世を通じて最高の祝日となった。

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