北本市史 通史編 近世

全般 >> 北本市史 >> 通史編 >> 近世

第1章 江戸幕府の成立と北本市域

第3節 本宿と鴻巣宿

1 石戸宿から中山道

鴻巣宿(元宿)の設置と移動
本宿村に宿駅が設置されたということは前項でも触れたが、それについて詳細に検討してみたい。本宿の宿駅や街道については伝えられる『新記』の記述を示すと次のとおりである。
〇本宿村
本宿村は古へ宿駅なりしが、慶長年中今の鴻巣へ移せしよし、正保の国図には本鴻巣村と記し(中略)古街道の跡は東方に当り、坂田村より東へ入り、上下中丸・山中等の村々を経て当宿に入り、夫より東間村に至れり、この路今の往来より低くして古街道なること定かに分かりて(後略)

〇原馬室村枝郷
小松原 村内一條の街道あり、中山道の古道なりし由、変革して今の街道となりし、年代は知らず

〇鴻巣宿
天文二十年(中略)九月朔日かの地より爰(ここ)に移りて、則原地を開いて市宿新田と名付居住せり、当時は今の本宿村人馬継の駅場たりしを、後慶長七年に至て彼宿駅を当所に移せり、依て市宿新田の号を改めて鴻巣町と呼べりと云、また旧家勘右衛門が家伝には、文禄四年市宿新田を駅場に取立てし由を載たり、(中略)兎角今の如く宿駅となりしは、文禄・慶長の間に始ること知べし勘右衛門深井氏なり(中略)永禄年中鴻巣市宿村を往環の駅場に取立てし由、これらのこと三太夫が家に伝ると、年代合わざることは村名の條に瓣(べん)ぜり

この記述によると、本宿村にはかつて宿駅があったが、慶長年間(一五九六~一六一五)にその機能は鴻巣へ移転したために、「正保の国絵図」には元の鴻巣ということで「本鴻巣村」と記しているという。ちなみに慶安二~三年(一六四九~五〇)ころに作成された『武蔵田園簿』には「本鴻巣村」とある。また古街道としてあげる坂田村(桶川市)から中丸村・山中村を経て本宿村・東間村へ続く道は、延長すると西は深井村から上谷新田・鴻巣宿、東は岩槻城下へ続くから、この道は当地方と岩槻とを結ぶ戦国期の重要な道であったといえよう。それは沿道付近に小池・立川・深井・大島・矢部・河野・本木・加藤などの土豪が居住していたことでも知られる。従って、 この古道が中山道であるはずはない。原馬室の枝郷小松原(鴻巣市)に中山道の古道が通じていたことは前項でも述べたが、これは本宿村から続いている道である。
鴻巣宿の項には慶長七年(一六〇二)に本宿村から宿駅を移転させて鴻巣町としたと伝える一方、もと深井村に居住した深井氏の家伝によれば、文禄四年(一五九五)に市宿新田に宿駅を設置したということを紹介し、結論として鴻巣宿は文禄~慶長(一五九二~一六一五)の間に成立したと述べている。勘右衛門(深井氏)の項には、永禄年中(一五五八~七〇)に鴻巣市宿村に宿駅を設けたとあって異にしている。以上の各説を古い順にならべると次のようになる。
(1)永禄年間(一五五八~六九)説
(2)文禄四年(一五九五)説
(3)慶長七年(一六〇二)説
(4)慶長年間(一五九六~一六一四)説
(1)の深井氏家伝が何であるか未詳であるが、「深井勘右衛門由緒帯刀願之記録」(国立文書館蔵 内閣文庫)によれば、深井対馬守景吉は主君太田氏資の死後深井に戻って近隣を開発、「永禄四丑年鴻巣市宿村を往還之駅馬二取立候処」、たびたび火災に逢い、紀州熊野の霊地の土を持ち帰ってこれを鎮め、「鴻巣宿対馬取立候二付、鴻巣宿之鎮守権現氷川両社共二宮地村二御座候事」という。鴻巣市宿に宿駅を設置したという永禄四年は丑でなく酉に当るので、年代には検討の余地がある。太田氏資は永禄十年(一五六七)に没しているので、景吉が深井に帰農するのはそれ以降であるから、宿駅の取立ても同様であろう。鴻巣市宿がどこの場所をさすかであるが、当時の市宿新田は鴻巣から市域の北半分あたりまで含まれていたと考えることができるから、本宿もその一部であった。鴻巣宿を取り立てたのが深井氏であるとすれば、同氏が鴻巣宮地に移住するのは天正十八年(一五九〇)以降であるから、同宿の成立は天正十八年以降に求められる。
(2)の文禄四年説は『新記』のみであるが、前述のごとく深井氏の関係を考慮し、文禄二年に鴻巣御殿が構築されたことを合わせると、鴻巣宿の移転とすることに妥当性がある。先の永禄を文禄の誤記とすることも考えられよう。
(3)の慶長七年説は、徳川氏によって中山道に宿駅が設置された時であり、同年六月に熊谷宿に宛てられた「駄賃定書」などから生じたのであろう。
(4)の慶長年間説は、徳川氏による宿駅設置が同六年の東海道、翌七年の中山道などと宿駅制の整備を指示したものであろう。
従って、本宿に置かれていた初期の鴻巣宿は文禄年間ごろに現在の鴻巣へ移ったとするのが妥当であろう。

<< 前のページに戻る