北本市史 通史編 近世

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第1章 江戸幕府の成立と北本市域

第4節 検地の実施

1 近世社会と検地

市域最古の検地帳
市域に残る最古の検地帳は、元和六年(一六二〇)の荒井村(近世№六八~七二)と、下石戸村(近世№七三)のものであるが、その記載形式は次のようになっている。
(表紙)      
「    元和六歳八月拾日
 武州足立郡新井村御検地水帳
   五状之内   雅楽助
     案内者                    
          理右衛門」
弐拾四間半拾四間  下畠(さくち)壱反壱畝拾三歩  森田
拾弐間弐十弐間   下畠(同)八畝廿四歩      仁兵衛(助兵衛分)

これを見ると、表紙からは、新(荒)井村の検地は、元和六年八月十日(~十四日)に実施され、その結果は五冊の検地帳にまとめられた。このとき案内役(通常、村役人や有力農民の中から選ばれる)をつとめたのは、雅楽助(うたのすけ)と理右衛門の二名であったことがわかる。

図5 検地の図

(『徳川幕府県治要略』より引用)

さらに、 第一筆の記載内容からは、字「さくち」という所にあるこの畑は、森田という人の所有で、縦二四間半・横一四間(土地はすべて長方形として測量する)で一反一畝一三歩の広さをもち、等級(上々・上・中・下・下々の五等級)は「下」であることがわかる。また、「助兵衛分仁兵衛」という記載がみられるが、これは分付(ぶんづけ)記載という。助兵衛が畑の所有者(分付主)であり、実際の耕作者は仁兵衛(分付百姓)であることを表しており、両者の間には何らかの隷属(れいぞく)関係のある場合が多い。さらに、奥書を見ると、この検地は牛田杢右衛門以下五名の検地役人によって実施されたことがわかる。このように、検地帳はさまざまなことを私たちに語ってくれるのである。
この検地帳は、年貢徴収のための基本台帳で、一村単位に正副二冊作成され、領主と村(名主)で一冊ずつ保管した。そして、検地帳に登録された名請人(なうけにん)は、土地に対する責任者として領主から耕作権を公認されたが、同時にその土地にかかる年貢を負担した。封建領主の経済的基盤は主として農業生産であったから、土地と農民をいかに総合的に把握し支配するかは領主にとって最も重要な課題であったが、検地の施行によって土地の生産性と、年貢高・年貢負担者を明確に把握することができたのであり、近世封建支配の確立は、このような検地をもって指標とする。

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