北本市史 通史編 近世

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第1章 江戸幕府の成立と北本市域

第4節 検地の実施

1 近世社会と検地

太閤検地
検地を統一的な基準のもとに全国的規模で実施したのは豊臣秀吉であった。秀吉は武力による征服戦と並行して、従来の指出(さしだし)検地(申告制)ではなく、その地に検地役人を派遣し一枚一枚の田畑を実測し、直接耕作者にその土地を名請けさせるという方法で、征服した諸国村々に次々と検地を実施していったのである。
秀吉の実施した検地を総称して太閤検地(たいこうけんち)というが、この検地のねらいは、「おとな百姓として不作に申付作あいを取候儀無用に候、今迄作候百姓直納可仕候」(天正十五年)(『越前若狭古文書選』P六三七)、「百姓親子並親類、家一に二世帯不可住、別々に家を作り可有之事」(文禄二年)(『駒井日記』(改訂史籍集覧)第二五P五ー八)というように、中世以来の土豪・名主などの中間搾取(さくしゅ)(いわゆる「作合(さくあい)」)を排除し、有力農民の「家」の内部にいた次男・三男などの傍系家族や下人・名子(なご)・被官(ひかん)などと呼ばれていた隷属農民を自立させ、新たな年貢負担者として、彼らを直接支配することによって、財政的な基礎を確立することにあった。その意味で、大きな歴史的意義をもっていた。そのため、旧勢力(土豪・名主等)からの抵抗は激しいものがあったが、秀吉は、これに抵抗する者は領主であれ百姓であれ一人残らずなで斬りにせよと命じて、断固たる決意で検地を推し進めていった。このことは、太閤検地が秀吉の全国統一事業の完成に必要不可欠な政策=基礎事業であったことを如実(にょじつ)に物語っている。この検地では、従来の三六〇歩一反の制が、六尺三寸=一間、三〇〇歩=一反と改められ、田畑には地味・日当たり・乾湿・水旱損(すいかんそう)などを考慮し、品等ごとに、京枡(きょうます)による一反当たり玄米の見積り収穫量が石高(こくだか)という形で確定され、その合計が村高となった。そして、この村高をもとに年貢や諸役が賦課され、また農民の持高や武士の知行高の多少はその地位を示す指標となった。そしてその方式によって、一筆(いっぴつ)ごとの土地丈量が行われ、直接耕作者を年貢負担責任者として検地帳に登録しようとしたのである。そして、この基本方針は徳川家康に受け継がれ、さらに徹底したものとなっていったのである。
天正十八年(一五九〇)八月、関東入国を果した家康は、 ただちに家臣の知行割に着手した。このときの知行割は、牧野讃岐守康成(まきのさぬきのかみやすしげ)が石戸の地(北本市)に五〇〇〇石を与えられたように石高によって行われている。しかしこの時点では未だ検地は実施されておらず、おそらくこの知行割は、かつて後北条氏が行った検地(けんち)(貫高制=年頁高を貫高で表示)を石高に換算して行ったものと思われるが、その換算率については、一貫文=五石とする説をはじめ諸説があり詳(つまび)らかではない。

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