北本市史 通史編 近世

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第1章 江戸幕府の成立と北本市域

第4節 検地の実施

1 近世社会と検地

徳川検地        
さて、徳川氏による検地は、伊奈備前守忠次や大久保石見守長安のような優秀な側近家臣団の手によって、関東転封(てんぽう)直後よりはじめられた。『新記』によれば、天正十八年(一五九〇)には、県内において榛沢郡血洗島(深谷市)・児玉郡八町河原村(児玉郡上里町)・入間郡竜ケ谷村(越生町)・入間郡坂戸村(坂戸市)の四か村に検地があったとされているが、いずれも検地帳は現存していない。翌年には、県内各地で検地が行われたことが現存する検地帳などからわかる(『県史通史編三』P九三)。
これらの検地は、太閤検地の一環として行われたものであるが、検地そのものが、のちの検地に比較すると相当ゆるやかであったことがうかがえる。また、分付記載(ぷんづけきさい)(徳川検地の特徴)が広く見られたり、大半小の小割が依然として採用されていたり、貫文記載が見られるなど、検地の基本方針とは相反するような記載も見られる。しかし、これは後北条氏旧勢力との摩擦を避け、農民たちの動揺を防ぎながら、在地の状況に最も即応した方式をとることにより、徹底した在地把握をはかったために生じたものと考えられる。
ともあれ、このようにして慶長のはじめには武蔵国内の検地はいちおう完了し、慶長三年(一五九八)の武蔵国総石高は六六万七一二六石と集計されている。しかし、この石高は、前述のように非常に政治的配慮のもとで行われた検地の結果であり、それほど正確なものではない。
その後、慶長三年(一五九八)に豊臣秀吉が没し、同五年の関ヶ原の戦いに勝利し覇権(はけん)を確立した家康は、以後検地についても厳然たる態度で臨み、常陸国などでは「慶長の苛法(かほう)」と後世称されるほど苛酷(かこく)な検地が行われたのである。加えて、間竿(けんざお)も六尺一分に改められた(実質的な年貢増徴政策)ことや、積極的な新田開発政策などにより、正保年間(一六四四~四八)には、武蔵国の総石高は九八万二三三八石に達し、半世紀足らずの間に実に三一万石余(一五〇パーセント)もの増加をみたのである。これは全国的な傾向であり、元禄年間まで続く。ちなみに、元禄十年(一六九七)の武蔵国の総石高は一一六万七八六三石に増加している。ところが、この一〇〇年間には大規模な検地がくり返し実施されているが、その背景には、幕府の財政的基盤を強化するため、近世初頭以来の新田(畑)増加の実態を把握し、増大した農業生産力による年貢余剰米を収奪しようという意図があるのはいうまでもない。そして、このような動きの中で、村内有力農民の土地はしだいに分解し、小農民の自立が急速に促進され、やがて近世村落の中核を形成するのである。
なお、検地を行う場合には検地奉行(ぶぎょう)が任命され、これに従事する役人は誓紙を差出し、実際的基準としては「検地条目」が定められ、これに沿って実施されるのである。徳川幕府は、慶安二年(一六四九)に、それまでの検地基準を集約して「慶安検地条目」を制定し、以後この条目が検地の基準となったが、その後、享保十一年(一七二六)には「新田検地条目」が整備され、元禄以前の検地を「古検」、享保以後を「新検」と称するようになった。しかし、元禄以前にあって「古検」という場合は文禄以前をさすのが普通である。

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