北本市史 通史編 近世

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第1章 江戸幕府の成立と北本市域

第4節 検地の実施

2 市域の検地概況

石戸領の検地        
前掲図3のように、上尾市小敷谷から鴻巣市滝馬室にいたる、荒川とJR高崎線に挟まれたこの地域は、近世においては「石戸領」と総称され、上級旗本牧野氏の知行地(ちぎょうち)であった。
家康の関東入国(天正十八年八月一日)から間もない九月七日、代官頭伊奈熊蔵(忠次)から牧野半右衛門康成あてに、本編第一章第二節のような「御知行書立」(近世№一)が出されている。
この書立によると、石戸領全八か村ーあせおし(畦吉)・領家・こしきや(小敷谷)此内に小林村・ふちなみ(藤波)こひつミ・ひてや・河田や(川田谷)・石戸八幡原そうしき・まむろ(馬室)さか下ー五〇〇〇石が、すべて牧野氏の知行地となっている。このうち、市域に該当する村々としては、「石戸八幡原そうしき」と表記されているものがそれである。脇付に「そうしき」と記されていることからも、この段階では「村切り」はできておらず、いくつかの共同体を一括して表記したようである。しかし、『武蔵田園簿』でみると表3のように、石戸町・下石戸村(のちに、上・下に分村)・荒井村・高尾村の四か村と小松原村に分村している。この「村切り」がいつ行われたか、資料を欠き不明であるが、一般に元和検地がかつての郷的な村落を解体し、近世的な行政村を創出させようとする意図のもとに行われていることや、享保十二年(一七二七)の座配争論(新井村双徳寺住職の「入院祝儀」の際、座席の順位について争論が起こった一後述)の中で「殿様より拝領の節は、石戸領ハケ郷にて、新井村・高尾村も石戸領の内にて罷(まかり)在り候……(中略)……元和年中、御検地改候て、新井村相分り………」(矢部洋蔵家 二四六六)と述べられていることを考えると、元和検地(元和六年)の際行われたものと思われる。
表3 石戸領の村高(慶安2~3年)

(単位:石)


 村 高 田 畑 備 考 
小敷谷村(上尾村)116.000 45.426 70.574 
畦吉村(上尾村)(2)
556.880  
126.54885 430.33135 のちに領家・畦吉村に分村  
藤波村(上尾村)462.1515 190.7617 271.38982 のちに藤波・中分・小泉村に分村   
日出谷村(桶川村)(1)
284.27624  
114.374 169.90214 
川田谷村(桶川村)1322.6773 521.152 801.52534 
石戸村(北本市)162.750 162.750 
下石戸村(北本市)652.650 175.095 477.555 
荒井村(北本市)255.790 55.81308 199.97692 
高尾村(北本市)376.790 56.66854 320.12146 
小松原村(鴻巣市)150.000 150.000 
山原方(鴻巣市)100.000 野高
100.000  
馬室村(鴻巣市)676.035 43.11836 632.91664 
計 (2)
5116.0001  
1328.95753 3787.04267 

注 畑合計には、野高100石を含む (『武蔵田園簿』から作成)


写真5 検地帳(矢部洋蔵家蔵)

ところで、この石戸五〇〇〇石は実際に縄打(なわうち)(検地)をした上のものではなく、後北条氏時代の貫高にもとづく概算の石高を示したものであり、奥書には「来年御縄打之上不足二て候ハゝ足可申候、あまり候ハ、御返し可被成者也」と記されている。つまり、来年(天正十九年)正確に検地し、五〇〇〇石に不足したら領地を足し、五〇〇〇石以上であったなら差し引き過不足を調整しようというのである。したがって、天正十九年(一五九一)には、市域の村々においても検地が実施されたはずであるが、残念ながらそれを証明する資料は現在までのところ発見されてない。しかし、中分村(上尾市)の矢部弘家文書の中には、天正十九年の藤波村(のちに、藤波・中分・小泉村に分村)の検地帳の写しが残されているので、この「御知行書立」に示されているように、この年実際の検地が行われたことは間違いないものと思われる。
このときの検地の結果、石戸領全体の石髙がどの程度であったか、また過不足の状況がどうであったかについては不明である。ちなみに、約六〇年後の慶安二~三年(一六四九~五〇)ころにつくられた『武蔵田園簿』の示す石戸領の村高は表3のとおりで合計が五一一六石余になっている。しかし、①この間に市域においても盛んに新田開発が行われていること②山原方(場所は不明)というような表記方法が用いられていること③山原方=野高一〇〇石小松原村=一五〇石と記載されているこの石高は、正確に算出したものではなく「抓(つか)み高(だか)」と思われること④野高とは、「野高(のだ)は大方山高に類し、秣草場(まぐさば)等の入会(いりあい)の場所にても又は持切(もちぎり)の原或は萱立(かやだち)の野方など検地いたし反別を付たるもあり、無反別の場所にても高入にいたし、年貢は其村定免(じょうめん)通りに納め、又は本高の内より抜て野高永を別段(べつだん)に納るもあり、又……クゴ・真菰(まこも)・菅(すげ)高等を野高と唱うるもありて色々なり……」(『地方凡例録』)とあるように、山野から年貢を取るためだけのしくみにすぎないこと、等々を考えると、おそらく牧野氏の入封時には五〇〇〇石には不足していたものと推測することができる。因(ちなみ)に、「抓み高」とは『地方凡例録』では、「極山中などにて往古は人跡も知れざる場所等、度々の検地にも洩れ、或いは文禄・慶長以後開発の村も、遠境辺鄙(へんぴ)ゆへ国府へ知れざる村などありて、後世に至り年貢を納めるやうになり、百姓小前銘々持分の高は積もらずして、一村一抓ミに何百何拾石と極りたる村々稀にあり、是を抓ミ高といふなり」と説明している。そして、これら「抓み高」の村々は、その後慶安から元禄までの、特に寛文・延宝・元禄の総検地をへて本当の村高が確定されていくのである。
天正十九年(一五九一)以降、市域の村々においても幕府および地頭牧野氏等の手によって検地がくり返し実施されているが、検地帳はほとんどが散逸し現存しない。そこで、わずかに残されている検地帳と『新記』をもとに作成したのが表4である。しかし、『新記』といえども完全ではなく、欠落や書き損じ等があることも念頭において利用しなければならないことはいうまでもない。
さて、表4を見ると、新田開発等による石髙増加の著しい石戸領の村々(下石戸上村・下石戸下村・石戸宿村・高尾村・荒井村)では検地の回数も多く、大規模なものでは元和六年(一六二〇)と寛文七~八年(一六六七~八)・寛政六年(一七九四)の検地をあげることができる。
表4 北本市域における検知実施状況
村 名 慶長〜寛永期 寛文〜元禄期 享保以降 
旧石戸村 下石戸上村 元和6年(1620)
牛田杢右衛門・他
5名
寛文7年(1667) 
寛文8年(1668)
地頭・牧野某
元禄11年(1698)新田
寛政6年(1794) 
新田
御代官浅岡彦四郎 
下石戸下村 竟政6年(1794) 
新田
御代官浅岡彦四郎 
石戸宿村 寛文8年(1668) 
地頭・牧野某 
寛政6年(1794) 
新田
御代官浅岡彦四郎 
高尾村 寛文8年(1668) 
寛文12年(1672)新田 
荒井村 元和6年(1620) 
牛田杢右衛門・他
 5名
元和9年(1623)新田
井上助左衛門・他
3名 
寛文7年(1667) 
地頭・牧野某 
享保12年(1727)新田
寛政6年(1794)
新田
浅岡彦四郎  
旧中丸村 束問村 竟永6年(1629) 
会田七左衛門・他3 名
北本宿村 寛永8年(1631) 
永田八兵衛・他3名
寛文8年(1668) 
深井村 竟永6年(1629) 
伊奈半十郎
宮内村 竟永6年(1629) 
伊奈半十郎
竟永6年(1629) 新田
伊奈半十郎
山中村 竟永6年(1629) 
伊奈半十郎
古市場村 竟永6年(1629) 
伊奈半十郎
北中丸村 慶長17年(1611) 
伊奈半十郎
竟永6年(1629) 
伊奈半十郎
常光別所村 竟永6年(1629) 
伊奈半十郎
花ノ木村 竟永6年(1629) 
御代官会田七左衛門
元和六年検地については、前述のように荒井村と下石戸村の検地帳が現存する。ところが、『新記』にはその記載が全くない。しかし、原馬室村(鴻巣市)・藤波村・畦吉村・小敷谷村(上尾市)の条をみると、地頭牧野氏の検地として記載されており、この年石戸領全域に検地が実施されたものと推測することができる。また、検地帳に記載されている、牛田杢右衛門・都筑喜左衛門・会田七左衛門・加藤久太郎・井上茂左衛門・山中金太夫の六人の検地役人は伊奈氏の手代衆であり、この検地は牧野氏の依頼による幕府検地ではないかと思われる。また、元和九年のものは、新田検地である。
寛文七年(一六六七)の検地帳は荒井村(北本市旧村・戸長役場他 三一〇・三一一 ・田方欠)と下石戸村上分(吉田眞士家一〇六 この時点では、下石戸村はまだ上下に分村していない)が現存する。下石戸村下分については不明であるが、享保十六年(一七三一)に牧野大内蔵の采地(さいち)高一〇〇石が下石戸下村から分離し、本宿村の持添となった際、寛文七年の検地帳から抜き書きし、下石戸下村名主三太夫から本宿村名主利左衛門へ渡したものが岡野正家文書(近世№八一)の中に残されている。これらのことから、寛文七年には牧野氏の手によって下石戸村の検地が行われたと考えることができる。また、寛文八年・寛政六年(一七九四)の検地帳は現在のところ見つかっていない。

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