北本市史 通史編 近世

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第1章 江戸幕府の成立と北本市域

第4節 検地の実施

3 慶長~寛永期の検地

分付記載
表11 荒川村・下石戸村における土地所有形態
 区分

村名
被分付地を有する者 彼分付地を持たない者 家のみの名請人 合計 
a
被分付地のみ  
名請地+被分付地b
名請+分付+被分 
小計 名請地のみ c
名請地+分付地 
小計 
荒井村 人 23 36 51 55 99 
8.1 23.2 5.1 36.4 51.5 4.0 55.5 8.1 100.0 
下石戸村 人 36 65 21 122 43 11 54 178 
20.2 36.5 11.8 68.5 24.2 6.2 30.4 1.1 100.0 

(『市史近世』№68~73より作成)

さらに、荒井村・下石戸村とも分付(ぶんづけ)記載が多いのも特徴の一つである。表11をみると、被分付地を耕作する者は荒井村では三六人(三六・四パーセント)、下石戸村では一二二人(六八・五パーセント)であり、そのうち、被分付地のみを耕作する者が荒井村八人(八・一パーセント)、下石戸村三六人(二〇・二パーセント)もいる。江戸時代の地方書である『地方凡例録』には、「祖父・親の代に田畑を二男三男孫などへ讓ったのち検地が行われた時、本家を相続した惣領の名を肩書に誰分として、讓られた分家の当主の名を誰と記したもの」と記されている。しかし、これまでの研究の結果、必ずしもそうとばかりは言えず、分付主=有力農民層、分付百姓=隷属(れいぞく)農民層という画一的な見方への危険性が指摘され、両者の関係については、おおよそ次の七つぐらいの関係が想定されている(『県史通史編三』P八七)。
(1)給人と農民との関係に基づく分付記載
(2)本家と血縁分家との関係に基づく分付関係
(3)有力農民と隷属農民の関係に基づく分付関係
(4)自主経営の補完としての請作関係に基づく分付関係
(5)有力農民相互の得分権関係に基づく分付関係
(6)他村からの入作百姓の名請地としての分付記載
(7)分付主がその土地・分付百姓の性格を示す分付記載
たとえば、荒井村では分付地を有する者が九人(b+c)で、そのうち被分付地を有する者が五人(b)いる。その一人である理右衛門は最大の分付主で、持高の七四パーセントにあたる四町三反六畝八歩の畑を一四人に分付しているが、逆に畑三反一〇歩の被分付地(第二位の分付主である双徳寺分)を持っている。この場合、両者の間には(2)~(4)にみられるような従属的な関係は考えにくく、有力農民相互の得分権関係に基づく分付関係と推定することができる。
この分付記載は、中間搾取を排除し、一地一作人制を貫徹することにより小農の自立をはかろうとする検地の基本方針とは、明らかに矛盾するものであるが、この時期の徳川検地に特徴的にみられるものである。そのねらいは、新領国掌握(しょうあく)のうえで、有力農民の存在を積極的に認め、小農民を掌握させた方が幕府にとってはるかに得策であると考えたためである。換言すれば、在地勢力との妥協策であり、ひいては農民の反抗を抑える重石の役割を果たさせ、一方では幕藩家臣団の補充源にしようと考えたためである。また、分付記載は、中世以来の重層的な構造を簡略化して記したものであり、幕府はこのことにより自立農民(本百姓)と隷属(れいぞく)農民の両者を二元的に掌握しようとしたのである。とはいえ、たとえ分付百姓としてでも検地帳に登録されたことは、その耕作権をみとめられたことになり、村落内での地位が上昇しつつあることを示している。
このように、初期検地において、村の中核として把握されたのは中世以来の土豪・名主的な有力農民であり、小農自立が本格的に進められるのは寛永・寛文の検地をまたねばならなかった。ちなみに、寛文七年(一六六七)の荒井村検地帳では、この分付記載は姿を消しており、逆に屋敷持は三八人から六六人に急増し、小農の成長を確認することができる。

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