北本市史 通史編 近世

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第1章 江戸幕府の成立と北本市域

第4節 検地の実施

3 慶長~寛永期の検地

中途半端な村切りの結果
ところで、旧石戸領五か村を地図上(図6)で色分けして見ると、見事なまでの「モザイク模様」ができあがる。つまり、村境が一本の線ではなく、それぞれの村の土地が他村の中に点在し、村々がお互いに複雑に入り組み合っているのであり、しかも、その状況が現在にまで及んでいるのである。その中で、本村の部分から離れて、比較的まとまった塊をなしているのが北袋であり、鉄砲宿なのである。つまり、元和検地の際「村切り」を実施しながらも、散在的な出入作を解消して耕作地に基づく村域の決定を行うことができなかったのである。幕府の知行割は「検地のうえ所を替え入組みなきよう」にとの仰せ渡しによって、近世村落の村切りが実施されているにもかかわらず、このように、他に例をみないような北本の状況がなぜ生まれたのかは、現在までのところ不明であるが、一つにはこの斉藤氏の場合のように、開発との関係が考えられる。前述のように、荒井村「草分け」の一人である斉藤織部は、北袋の原野を開墾し、ここに移住して北袋の「草分け」となったわけである。そして、石戸領が四か村(下石戸村・石戸町・荒井村・高尾村)に分村する際、北袋は高尾村でなく荒井村の所属となることを強く希望し、行政的合理性よりも村びとの絆が尊重され、結局、人(屋敷)が村所属の基準となり、「村切り」が中途半端になってしまったものと考える。その背景には、在地土豪層を中心とした村の秩序が確立し年貢収納等が確実に行われていたことや、牧野氏が無用の混乱を避けようとしたこと、さらには幕末まで牧野氏一族による支配が続いたこと等が考えられる。その結果が、あの「モザイク模様」になったのではないだろうか。また、斉藤氏のようなケース以外にも、分家の場合や抱(下人)等の場合も当然考えられると思う。
このような例は全国的にも非常に稀であるが、似たような例が『駒沢大学史学論集 第一三号』(ー九八三年二月)の中で、「三河山間部における入り混り村について」として、報告されている。それによると、愛知県北設楽郡東栄町の本郷や柿野は、地域を超越して家と家とをつなぐ連鎖形の村であり、その形態を「入り混り村」と称している。立派な集落形態を形成しながらも行政的には「村」は存在していなかったとされており、これらの集落は付近にある数か村の入り混りで、家によって村を異にしており、土地の帰属もそれに準じていたとされている。
その一部を引用すると「各村々では互いに出入作をしていたと考えられる。例えば本郷の入り組みの状況を調べると、寄近村・別所村等の耕地が本郷に分布しており、延宝検地でも村切りは行われていない。従って、本郷地域は複数村からの出郷によって構成されるもので、さらにその入り組みの様子は、隣り合った耕地でも村が異なるという複雑な形態をとるのである。これは村落の構成体である「家」が「村切り」という画地的一定地内に制約されず、飛地的に「家」と「家」を連鎖的に結合させた家連合すなわち「村」を示しており、その歴史的背景となっているのは、中世的属人主義である。従って、実際に入り混り村においては、入作者が名請人持高で第二位を占めている例も見られるのである」と報告されている。そして、入り混り村の小前百姓は支配上では出身村に帰属しており、年貢の割付方法をみると、年貢は五人組とは違う出身村ごとの組に割り当てられており、納入の際にも各々組において年番の組頭が年貢を集め、それをさらに庄屋がまとめて一村分として納入していた。市域については、このような状況は見られないが、今後さらに実態を解明していく必要がある。

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