北本市史 通史編 近世

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第1章 江戸幕府の成立と北本市域

第4節 検地の実施

4 承応~元禄期の検地

荒井村の土地所有状況変化
さらに、元和検地以降の有力農民の荒井村における土地所有状況の変化について、考察してみたい。元和の検地帳では、村内に畑二一筆・一町九反六畝一二歩(田七筆・九反三畝二歩・計二八筆・二町八反九畝一四歩)を所有し、検地の案内人をつとめた雅楽助(うたのすけ)(矢部家)は、寛文検地帳では「川田谷久保」、「まへ山」、「九丁」、「六道」、「市場」などに畑一四筆・一町五畝一三歩を所有する名請人として登場し、一見持高は減少しているように見える。しかし、伜四郎兵衛名義の畑が五四筆・四町四畝一三歩あり、これを合わせると六八筆・五町九畝二六歩で村内一の高持百姓となる。これは村全体の耕地面積(畑)の六・六パーセントにあたり、この間に四七筆・三町一反三畝一四歩の増加があったことになる。この実に二・六倍という畑の増加が、新田開発によるものなのか、または、質流地等による土地集積によるものなのかはこの数字からだけではわからないが、その後(延宝期以降)の膨大な質地証文の存在などを考えると、恐らくその両方であったと思われる。また、寛文十一年(一六七一)の「宗門改五人組帳」によれば、同家では四人の年季下人を抱えていたことも記載されている。
北袋の「草分け」である斉藤家についてみると、元和段階で織部は畑三六筆・二町六反四畝一五歩(田六筆・三反ー畝二四歩、計四二筆・二町九反六畝九歩)を所有し、村内二番目の高持百姓であったが、その件太左衛門の代になり、「うしろ」「小原」「がぞう」「谷足」などを中心に五八筆・三町五反ー畝八歩を所有し、二二筆・八反六畝二三歩の増加をみている。この太左衛門も二人の年季下人を抱えていた。
また、新井帯刀の伜作左衛門は畑三筆・二反四畝二九歩から、三一筆・二町三反六畝五歩へと一〇倍近くの増加を示し、三人の年季下人を抱えるまでに成長しており、福島大蔵の伜与兵衛は畑二筆・三反三畝二七歩から、二七筆・一 町七反七畝九歩へと、やはり持高を広げ、年季下人一人を抱えている。
これらは、荒井村のしかも畑だけについての数字であり、これだけで結論づけることは早計かもしれないが、村役人層を含めて有力農民たちは、この時期に、年季下人等の労働力を使いながらいわゆる手作地主経営を行い、一方で積極的に新田開発や土地集積に努めているということができると思う。そして、このような耕地の増加を背景に小農自立が促進され、寛文十一年(一六七一)の「御法度之帳」(宗門改五人組帳、矢部洋蔵家 一三二六)によると、荒井村の戸数は六六戸に増え、元和検地段階での三八戸(四三筆)から新たに二八戸の新本百姓が誕生したことになる。このことを裏付けるように、屋敷地面積も、元和段階(一六二〇年)の二町七畝一一歩から寛文段階(一六六七年)の三町二反八畝二八歩(延宝二年「畑方之事」新井分)へと一町二反一畝一七歩も増加している。この戸数の増加した中には、血縁的な分家を中心に、隸属的農民(抱下人等)の独立、他村からの入村などが考えられるが、次に、五人組帳を手掛かりにその辺の問題について考察してみよう。

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