北本市史 通史編 近世

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第1章 江戸幕府の成立と北本市域

第4節 検地の実施

4 承応~元禄期の検地

寛文・延宝五人組帳
表17 「宗門改五人組帳」からみる小農の成長と五人組の変化
No名請け人年齢寛文延宝備考下人
1与三右衛門611
2甚左術門 556
3八左衛門 436(№101 抱)
4伝右衛門 47
5平左衛門 476
6茂左衛門 41
7所左衛門 5925
8佐左衛門255
9甚右衛門53
10金右衛門61(№98 抱)
11庄左衛門614
12善兵術353
13勘右衛門 387※戸籍中に兄あり
14弥左衛門655(№92 子)
15作右衛門 65(№76 弟)
16小右衛門 647
17六左衛門 5249
18安右衛門 439(№105 抱)
19忠右衛門 499
20徳右衛門 36
21吉右衛門 479(№79 下人)
22次右衛門 6058(№78 子)
23庄兵衛 42(№81 弟)
24九兵衛 198
25甚右衛門 43
26角左衛門 458
27七左衛門 32610
28角右衛門 3710
29平右衛門 689
30弥右衛門 443
31彦左衛門 622(№94 子)
32喜左衛門 4573
33新左衛門 35
34半右衛門 353
35与兵衛554(№70 子)
36善右衛門 603(№72 子)
37八郎右衛門 5581
(内譜代下人1)
38三左衛門 351
39半左衛門 502
40作左衛門 501(№97 抱)
41市郎右衛門 432※戸籍中に兄あり
42市右衛門 6591
43甚三郎 261
44喜兵衛31
45加右衛門 44 3
46久三郎 31 
47清右衛門 61 1012(№86 子)
48権右衛門 43 12
49久右衛門 61 12
50庄右衛門 25 12※戸籍中に兄あり
51弥五左衛門 38 13
52甚右衛門 32 11
53市郎左衛門 38 13(№87 弟)
54里兵衛 32 13
55太郎右衛門 60 13
56加右衛門 54 
57権左術門 24 1211
58忠左衛門 50 (№83 弟)
59五郎左衛門 61 (№68 子)
60金右衛門 56 5
61惣右衛門 60 11
62六右衛門 ※船坂・怒百姓抱(川越玉泉院且那)
63双徳寺 1314
64宝蔵寺 14
65太左衛門 40 14枝郷北袋村名主
66四郎兵衛 52 14荒井村名主
小計6640
67与惣右衛門 記載なし(『延宝五人組帳』にあり)
68三左衛門 38 11 №59 五郎左術門子
69久左衛門 
70十左衛門 35 №35 与兵衛子
71次左衛門 
72市 兵 衛 30 №36 善右衛門弟
73勘左衛門 
74市之丞 
75里右衛門 
76権 三 郎 24 №15 作右衛門弟
77文右衛門 
78小左衛門 38№22 次右衛門子
79長左衛門 42 №21 吉右衛門下人
80市郎左衛門 10 
81勘右衛門 36 10 №23 庄兵術弟
82源五右衛門 10 
83八右衛門 40 11 №58 忠左衛門弟
84次郎右衛門 11 
85惣右衛門 
86三郎兵衛 3412 №47 清右衛門子 
87喜 平 次 2213 №53 市郎左術門弟 
88平 兵 衛 3214 №66 四郎兵衛子 
89角 之 助 14 №66 四郎兵衛子(?) 
小計72
90金右術門 記載なし(『延宝五人組帳』加筆部分にあり)15 
91与左衛門 15 
92忠左術門 37 15 №l4 弥左衛門子
93戊左衛門 15  
94七左衛門 33 16 №31 彦左衛門子 
95七右衛門 35 16 №30 弥左衛門弟 
96長右衛門母 16 №7 所左衛門
№8 佐左衛門
№29 平右衛門で抱 
97徳兵術 16 №40 作左術門抱(騎西立源院且那) 
98甚右衛門 16 №10 金右衛門抱
99長五郎母 17 №67 与惣右術門抱
100久右衛門 17    義右衛門抱 
101市郎兵衛 17 №3  八左衛門抱 
102茂左衛門 17 №67 与惣右衛門抱 
103惣拾郎 18 
104伝左衛門 18 
105長左衛門 18 №18 安右術門抱  
106庄 兵 衛 18 
107次左衛門 19    (鉄砲宿) 
108義左衛門 19      〃 
109三 之 丞 19      〃 
110安左衛門 19      〃 
111八 兵 衛 19 №107 次左術門
抱〃 
112半左衛門 20 
113甚五兵衛 20 
114九 兵 衛 20 野本村(東松山市)明善寺旦那
115作左衛門 3120 №47 清右衛門門下 
合計98 

注1 「寛文」「延宝」の数字は、「宗門改五人組帳」に記載されている組ごとの、便宜上の整理番号を示す。
 2 №115までの内、ゴジ数字は馬室村常勝寺旦那、他は川田谷村泉福寺旦那を表す。但し、№62・97・114は除く

 3 下人の欄の丸付数字は、年季下人の使用人数を表す

(「宗門改五人組帳」より作成)


表17は、寛文十一年(一六七一)と延宝三年(一六七五)の「宗門改五人組帳」(矢部洋蔵家 一三二七・ 一三二八)をもとに作成したものである。ただし、備考欄の「№〇 何誰子(弟・下人)」等の記載は、寛文の五人組帳に子・弟・下人として同じ名の見えるものを拾い出し示したが、この資料からだけでは、全てが同一人物とは断言できないということを念頭において見ていく必要がある。
さて、寛文五人組帳は、一二組(内六人一組あり)に分け記載されているが、それに名主(二)寺(二)船頭(一)の五戸を加え、合計六六戸となっている。女子が一人も記載されておらず村の人口は不明であるが、そこには譜代下人一人と年季下人(何年季かは不明)三九人の計四〇人が記載されており、名請人六六人中二三人(三四・八パーセン卜)が下人を抱えている。その出身地は表18のとおりで、荒井村とその隣村の高尾村・下石戸村などの出身が多い。これに対して、延宝五人組帳は、一三組で五戸、それに名主・寺・船頭の五戸と名主一家として二戸増えた分を加え、合計七二戸となっており、寛文期と比べ六戸増加している。これは、名主一家の二戸増(№88・89)のほかに、寛文期の子が、延宝期では親と同一組内にあるものが三戸(N№70・78・86)、弟が兄と同一組にあるものが一戸(№87)あり、いずれも血縁的な分家と考えてよい。この七二戸の内、四九戸は両方にその名が見えるが、前述六戸と確認できる四戸(№68・76・81・83)を除いた一三戸については、残念ながら、この資料だけでは照合することができない。また、延宝三年(一六七五)の五人組帳には、その後に、鉄砲宿四戸を含む追加筆一七戸(№90~115)が記載されており、その間々に「何誰抱」の但書のある九戸(内、母とあるもの二ー№96・99)がある。この追加筆一七戸の内、鉄砲宿次左衛門(№107)は、抱九戸の内一戸を持ち、延宝五年には組頭となっているから、七二戸と区別するのは難しい。また、この中には、旦那寺が一人だけ違っていて、他村から入村したと思われる者(№114)が居り、他に抱の中にも一人(№97)いる。さらに、表18で荒井村出身の年季下人一五名について、前記一七戸や抱九戸と照応したところ、僅か一例(№115)が認められるにすぎなかった。しかし、これは下人が「年季下人(奉公)」であり、抱が「年季ニ抱候」の抱のためと思われるが、前述の九戸をはじめとして、実際には、彼らのような予備軍の中から新本百姓に成長していった者も、もう少し多かったのではないだろうか。とはいえ、この荒井村の例からもわかるように、全体的には血縁的な分化が多かったと思われる。しかし、寛文の五人組帳にも、「兄」を含んだ家族が三例みられるが、他はすべて単婚家族であることから考えると、それはもはや複合家族の分化ではない。
表18 下人出身地別一覧
No出 身 地 人数 備考 
荒井(北本市) 
高尾 (〃) 
下石戸 (〃) 
石戸宿 (〃) 
上谷新田(鴻巣市) 
箕田(〃) 
川田谷(桶川市) 
上井草(川岛町) 
ーツ木(吉見町) 
10 下砂(〃) 
11 白銀谷(〃) 
12 出身地不詳 内、譜代下人1人  
計 40 

(寛文11年「宗門改五人組帳」より作成)

以上のようなことから、荒井村においては、元和以来引き続いた分立があって本百姓が増加し、その結果、従来の五人組体制がそのままでは存在しえなくなったのが延宝の五人組帳であり、これは元禄期になるとより明瞭となるが、この段階における近世的本百姓の一般的成立を意味すると考えられる。

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