北本市史 通史編 近世
第1章 江戸幕府の成立と北本市域
第2節 市域の知行割り
2 北本市域の領主
牧野氏図4 分間懐宝御江戸絵図
(平凡社太陽コレクションより作成)
慶長四年(一五九九)五二歳で京都で没すると、信成が一五歳で家督を継いだ。翌五年関ヶ原の戦いのとき信成は家康に従って出陣した。その後大番頭、御小姓組番頭、御書院番頭、大坂の陣へ出陣した。その後加増二度におよび寛永十年(一六三三)には一万一〇〇〇石領した。同十八年家綱が誕生すると御かしづきとなった。正保元年(一六四四)には下総国関宿城主となって一万七〇〇〇石を領し、石戸領五〇〇〇石は嫡男の親成が領するところとなった。親成は正保四年、父信成の致仕により家督を嗣ぎ、信成晩年の正保四年には石戸の地五〇〇〇石を「隠栖(いんせい)の料」として賜った。信成はまた、家康・秀忠・家光の三代にわたって忠勤をはげみ、三代の将軍が忍(行田市)や河越(川越市)に放鷹(ほうよう)のおりには、しばしば将軍を石戸に案内し茶屋に休憩の席を設けた。
写真1 牧野氏墓地 鴻巣市勝願寺
(鴻巣市史編さん室提供)
正保四年(一六四七)に信成の跡を継いだ親成は亡父の跡式を弟達に配分し八太夫尹成(はちだいうただしげ)に二〇〇〇石、太郎左衛門永成と兵部成房直成にそれぞれ一五〇〇石を分け与えている。以後この三人の子孫が石戸領の領主として幕末まで支配することになった。親成は若年から江戸城に出仕し、承応二年(一六五三)には内衛を司る御書院番頭を命ぜられ、将軍の出向に当っては御駕籠(かご)の前後を守る重要な警備を勤めた。翌年には河内国高安郡のうち一万石を、また明暦二年(一六五六)には二万二六〇〇石を加増され合せて三万二六〇〇石、寛文八年(一六六八)にはさらに二四〇〇石を加えられ、丹波国田辺(京都府舞鶴市)に移され三万五〇〇〇石を領し、命により築城、以後幕末まで子孫が代々城主として君臨した。
尹成は石戸宿・下石戸下・下石戸上の三村の知行主を兼ね、他村と合わせて二〇〇〇石を賜った。尹成の系統は次の通りである。
代 | 名前 | 生年 | 家督相続年 |
初代 | 牧野八太夫尹成 | 慶長十年(一六〇五) | 慶安三年(一六五〇) |
二代 | 牧野八太夫貴成 | 明暦二年(一六五六) | 天和二年(一六八二) |
三代 | 牧野八太夫為成 | 元禄十一年(一六九八) | 享保十五年(一七三〇) |
四代 | 牧野大内蔵義成 | 享保十九年(一七三四) | 宝暦六年(一七五六) |
五代 | 牧野弾正議成 | 宝暦十三年(一七六三) | 寛政二年(一七九〇) |
六代 | 牧野左近中務贇(よし)成 | 寛政五年(一七九三) | 文化六年(一八〇九) |
七代 | 牧野八太夫寿(なが)成 | 文化九年(一八一二) | 天保六年(一八三五) |
八代 | 牧野大内蔵時(よし)成 | 天保五年(一八三四) | 嘉永四年(一八五一) |
九代 | 牧野大内蔵章(あき)成 | 天保八年(一八三七) | 慶応元年(一八六五) |
代 | 名前 | 没年 | 没年齢 |
初代 | 牧野内匠頭永成 | 寛文二年(一六六二) | 四三歳 |
二代 | 牧野内匠頭嘉成 | 享保九年(一七二四) | 六九歳 |
三代 | 牧野勒負勝成 | 寛保元年(一七四一) | 四三歳 |
四代 | 牧野河内守孝成 | 延享五年(一七四八) | 二四歳 |
五代 | 牧野半三郎徳成 | 宝暦四年(一七五四) | 二九歳 |
六代 | 牧野内匠頭資成 | 安永九年(一七八〇) | 四三歳 |
七代 | 牧野大和守成傑 | 文政六年(一八二三) | 五四歳 |
八代 | 牧野駿河守成綱 | 嘉永二年(一八四九) | 不詳 |
九代 | 牧野大和守成裕 | 慶応三年(一八六七) | 不詳 |
牧野助三郎貞成ー?ー成房ー至成ー満成ー成表ー成富ー成義ー藤五郎ー寛十郎ー鉄次郎で、鉄次郎は幕末に生存した最後の領主である。