北本市史 通史編 近世

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第1章 江戸幕府の成立と北本市域

第3節 本宿と鴻巣宿

1 石戸宿から中山道

戦国末期の石戸宿
当地域において物資の輸送や通信のために、人や馬が使われたことが確認できるのは戦国時代からで、大永四年(一五二四)四月、小田原(神奈川県小田原市)城主北条氏綱が当麻宿(同県相模原市)にあてた伝馬に関する規定がそれである(古代・中世№一六七)。その内容は玉縄(同県鎌倉市)・小田原から石戸・毛呂(入間郡毛呂山町)まで、公用で往来する場合であっても、北条氏の許可書(虎の印判を押したもの)を持たない者へは、馬を提供してはならないというものである。もちろん私用で馬を使うときは、それなりの駄賃銭を払わなければならなかった。
北条氏の伝馬制については、本巻の古代・中世編第六章第二節に触れられているのでそちらを参照にされたいが、戦国大名である北条氏は、自らの領国支配を強化するために運輸・通信網を整備して伝馬制をしき、勢力の拡張に伴い伝馬制を次第に拡大していった。
従って、そのころ北条氏の勢力が当地域まで及びつつあったと考えられているが、大永四年段階では石戸は岩付太田氏の勢力下に属し、北条氏の伝馬制の実施には疑問がもたれている。いずれにしてもこの史料から石戸城に達する道筋は不詳であるが 吉野川(荒川)を後に渡船場となる石戸または高尾・荒井あたりで渡ったのであろうか。このほかにも石戸からは、岩槻・騎西・忍などの城を結ぶ道や、深井の対馬屋敷・中丸の加藤修理亮、さらには桶川・鴻巣などの近隣に居住する土豪らとを結ぶ道もあったであろう。こうして整備された道は、やがて江戸時代の道の基礎になるのである。
江戸時代の中ごろに作成された「元禄十年秣場論所裁許裏絵図」(近世№五六)から推定すれば、石戸城から東方に道が伸び、その両側に民家が並ぶ辺りは戦国時代の石戸宿の中心であっただろうし、そこには未熟ながらも休泊施設も備えられていたであろう。
中山道は江戸から京都、または大坂を結ぶ街道をさすが、江戸時代になって突然できたものではない。戦国時代には石戸城を中心に各地に伸びる道があったが、これらは主に武士のために使用されるものであった。また、地域の開発によっても道は作られるであろう。天文二十年(一五五一)九月、北条氏は市宿新田に定めを出して新田開発を奨励しているが、市宿新田に含まれる地域は鴻巣および北本あたりの鴻巣領であろうと推定される。また、永禄二年(一五五九)三月の太田資正判物(古代・中世№一八三)には、宮内の大島氏と深井の深井氏とが協力して開発した(古代・中世№二一三)ことが見え、天正五年(一五七七)三月には、太田助次郎が鴻巣宮内や鴻巣別所の百姓中に不作荒野の開発を命じている。このような開発によって人びとが住むと、そこには往来のための道が開かれたり、元の道の整備などが行われる。
ついで天正十八年(一五九〇)八月、徳川家康が江戸に入部すると、領国支配の強化の一環として道路網の整備も行っている。鷹狩りと称して領内各地を精力的に巡見し、各地の民情を視察したのもその一端であり、家康の行程は必ずしも一定したものではないが、随所に休息所としての御殿や御茶屋を設置している。市内では本章前節で述べたように石戸に御茶屋が設けられ、周辺では鴻巣御殿・上(かみ)村御殿(上尾市)・浦和御殿・蕨御殿などがあり、いずれも中山道に隣接していることが知られる。
同年九月に忍城主となった松平家忠の江戸との往来を見ると、大門(浦和市)を通過することもあるが、多くは浦和に宿泊しており中山道の通過を予測させる。
天下を統一した豊臣秀吉から松前(北海道)に領地を与えられた松前慶広は、文禄三年(一五九四)八月松前に向かうが、その通路は板橋から蕨・大宮・上尾・桶川・鴻巣・熊谷を通ったという(『大日本交通史』)。
これらから推測できることは、家康が江戸に入る以前から中山道の原形が形成されていたようであり、江戸が政治的に日本の中心的存在になると、そこから各地に向かって放射状に主幹道路が形成されるようになる。そのため石戸城を通過する戦国期の道は、やがて重要性を失って地域の人々の生活のための道へと変化していったのである。中山道も初めは折曲も少なくなかったであろうが、次第に整備されて直線的になっていった。
江戸幕府が最も重要視した道路は東海道で、次いで中山道、さらに日光・奥州・甲州の道中で、これらは五街道と称されて江戸と全国各地を結ぶ幹線道路であった。そのため江戸幕府の道中奉行の支配下にあり、さらには東海道には新居・箱根、中山道には碓氷・福島、日光・奥州道中には栗橋、甲州道中には小仏の諸関所が設置され、江戸との出入りについて取り締まりを厳しくした。
市域は中山道が通り、桶川宿と鴻巣宿のほぼ中間にあった。現在、北本一丁目から西に通じ、東間一丁目で高崎線を横断して鴻巣市小松に達する道は、寛永年間ごろまでの中山道であったとの伝承があり、江戸時代の一里塚(西塚)は、高崎線の敷設によって少し南に移された。また、初期の鴻巣宿も本宿にあったが、やがて鴻巣に移ったとも言われている。

写真3 一里塚 鴻巣市

写真4 中山道分間延絵図 立場(本宿下茶屋)


寛政十二年(一八〇〇)十月「分間絵図仕立御用」のために、桶川宿で書き上げた「宿方明細書上帳」(近世№一七五)によれば、中山道は桶川より「間(あい)の村」といわれる下石戸下分・下中丸・元宿・東間・深井・上谷新田の村むらを通って鴻巣宿に達している。桶川・鴻巣間からは、岩槻道の原市、川越道の古谷上・川田谷、菖蒲道の高虫などへ向かう脇道があった。また、東間村の三軒茶屋には「立場茶屋」といって、旅人の休息所が一か所あった。この調査を基に作成された「中山道分間延絵図」(近世№ 一七六)には、立場が本宿村の東側と東間村の東側にそれぞれ描かれている。立場のあるこのあたりは、桶川宿と鴻巣宿のほぼ中間であって、旅する者が疲れた足を止めて休息するにちょうど良い場所であったからである。
文久元年(一八六一)四月、和宮の通行を予定して作成されたと考えられる「中山道本宿村往還家並絵図」(近世№一七七)による本宿村には、東間村境から下中丸村境までの中山道六七〇間が通り、下中丸村境辺りの民家はまばらであるが、荒井河岸への道が分れる辺りから中山道の両側にそって、整然とした家並みが軒をなしている。やがて家並みも多門寺・天神社で切れるまで続く様は、本陣・問屋・旅籠(はたご)がないものの、あたかも宿場のごとくである。こうした本宿村はかって宿駅が置かれたことを連想させるし、その後は「間の村」として立場などが置かれたのである。この絵図から家の規模を見ると、間口の広さの最大は一〇間半、最小が二間半であり、住民の大部分が座敷をもち、その部屋かずも二間から七間もあってそれぞれに畳が敷かれている。このように百姓家でも宿場の旅籠屋とあまり差がなくなると、次第に旅人の宿を引き受けるようになった。
本来「間の村」は、旅人などを宿泊させてはならない規定であったが、宿駅の旅籠などに空きがなく泊まる余裕のないときや、路銀の乏しい時は比較的旅籠賃の安い間の村を利用しようとする傾向が次第に増えてきた。幕府はこうした実情に対して、大名も含めて間の村での宿泊を禁止する触れをたびたび出しているが、利用者にとっては都合のよい所を利用するのは常であった。

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