北本市史 通史編 近世

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第2章 村落と農民

第1節 村落の推移

1 村の概況

宮内村
文献上での宮内の初見は永禄八年(一五六五)であるが、貞享年間(一六八四~一六八八)村内が上宮内村と下宮内村に分かれた。はじめ幕府領であったが、上宮内村は元禄十一年(一六九八)に一部が旗本内藤氏の知行地、宝永元年(一七〇四)残りが旗本数原氏の知行地となった。下宮内村は享保六年(一七ニー)旗本小林氏の知行地となった。検地は寛永六年(一六二九)に行われた。村高は『武蔵田園簿』で三九八石余、うち田一四七石余(三七・〇パーセント)・畑二五〇石余(六三・〇パーセント)、『元禄郷帳』では上宮内村二〇五石余、下宮内村一九七石余で、以後はほとんど変わらなかった。高札場は村の中央・北方・東方に三か所あった。神社は氷川社・稲荷社・諏訪社があり、寺院では新義真言宗歓喜山常福寺(下深井村寿命院門徒)、氷川社の別当で当山派修験大乗院があった。化政期の家数は上村三〇軒、下村二七軒であった。主な物産に、繭・米・陸稲・糯米(もちごめ)・大麦・小麦・裸麦・大豆・小豆・粟・稗・蕎麦・甘藷・甘藷・実綿・空豆・葡萄等があった。

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