北本市史 通史編 近世
第2章 村落と農民
第2節 秣場と論争
2 享保期の荒川通りの秣場開発
慣行無視の秣場開発元禄期(一六八八~一七〇四)の秣場論争が入会権をめぐる村々の争いであったのに対し、享保期(一七一六~三六)のそれは領主の秣場の開発・課税政策によるもので、その性格は大いに異なる。言うまでもなく領主としては秣場として多数農民に共同利用されるよりは、田畑として開発し年貢の増徴を図る方が得策である。ここでは領主の直轄の原野(立野)に、百姓が田畑を開いている事例であるが、この対象地を立野でなく秣場としたのが享保期といえる。当然従来の慣行を無視するものであり、農民の利と相反するものであったから大きな問題となった。
次の資料は、享保九年(一七二四)八月に、荒井村と高尾村から伊奈半左衛門役所に提出された、上沼秣場の永続を願う嘆願書である。
恐れ乍ら書付を以て御願い申し上げ候御事
右の場所、永壱反に付き七拾弐文つゝ年々御上納仕るべく候
右の村々の儀は、悪場に御座候に付き、先規より秣刈とり渫土(ちょうど)取上げ夏作秋作こやしに入れ耕作致し、御年貢御上納仕り、其の上中山道鴻巣宿往還の御伝馬相勤め申し候処に、此の度御新田御願いの者へ仰せ付け為され候ては、古田耕作仕るべく様御座無く、御年貢御上納成されず、大勢の人馬飢命難儀仕り候、此の秣場の儀は満水の□(節力)砂置川欠等に年々罷り成候に付き、百姓自普請に致し大分困窮仕り候、此の秣場にはなれ候ては、百姓相立ち申さず候間、右の反永年々御上納仕るべく候間、御慈悲を以て先規の通り仰せ付け下され候は、大勢の百姓相助かり有難く存じ奉り候、以上
- 一
- 荒川通り野地芝地御新田開発御願の者罷(まか)り出候に付き、村々御召出し遊ばされ御尋ねに付き申し上げ候御事
- 一
- 高尾村下芝地五拾町歩程と申し上げ候得共、四拾町程御座候
右の場所、永壱反に付き七拾弐文つゝ年々御上納仕るべく候
此の秣場入会村 荒井村
同所枝郷北袋村共に
高尾村
右の村々の儀は、悪場に御座候に付き、先規より秣刈とり渫土(ちょうど)取上げ夏作秋作こやしに入れ耕作致し、御年貢御上納仕り、其の上中山道鴻巣宿往還の御伝馬相勤め申し候処に、此の度御新田御願いの者へ仰せ付け為され候ては、古田耕作仕るべく様御座無く、御年貢御上納成されず、大勢の人馬飢命難儀仕り候、此の秣場の儀は満水の□(節力)砂置川欠等に年々罷り成候に付き、百姓自普請に致し大分困窮仕り候、此の秣場にはなれ候ては、百姓相立ち申さず候間、右の反永年々御上納仕るべく候間、御慈悲を以て先規の通り仰せ付け下され候は、大勢の百姓相助かり有難く存じ奉り候、以上
- 享保九年辰八月
- 牧野助三郎知行所
武州足立郡石戸領荒井村
同所枝郷北袋村共に
名主 平兵衛㊞
年寄 太左衛門㊞
- 伊奈半左衛門様
- 組頭 喜四郎㊞
御役所
(矢部洋蔵家一〇七七)
この中で、上沼秣場は入会両村の農民にとって農業経営を維持する上で不可欠のものであり、これまで洪水と闘いながら命がけで守ってきた大切な場所である。したがって、ここが新田として開発されてしまっては、それこそ死活問題である。そこで、一反に付き永七二文の割合で草永を上納するので開発を許可しないでほしいと訴えている。