北本市史 通史編 近世

全般 >> 北本市史 >> 通史編 >> 近世

第2章 村落と農民

第2節 秣場と論争

2 享保期の荒川通りの秣場開発

荒川の瀬替えとその影響
市域の荒川流域には、広大な流作場(りゅうさくば)が展開する。流作場とは、「川筋・堤外、或は湖水池沼等の岸通りにて、囲畔(かこいくろ)もなく用水一面に掛る地所に、稲作を仕付る分は反別の改めを受、流作場と唱えて年貢を納む。斯のごとくの場所は、旱魃(かんばつ)年には植出し多く、又水多きときは作付成り難く、仕付たる分も押流し、年々極(きめ)ては仕付難く不定の作場なり。(中略)一体は反高同様のものなれども、毎年仕付難く、其上大水等の節地面とも押流すこともありて実に不定地なり、故に作付ある年は見分いたし取箇を申付るなり(下略)」と『地方凡例録』に記されているように、少しの出水の節でも冠水するような悪条件の場所である。もともと大宮台地の北側(鴻巣市糠田以北)は、元荒川の氾濫原で荒川の瀬替え以前から洪水時には荒川の水が和田吉野川へ流れ込んでいたものと思われる。しかし、この瀬替えにより荒川本流の水が流れ込むようになり、この地を水害常襲地域へと変えていったのである。
この瀬替えは、前述のように関東郡代伊奈忠治の手により行われたが、寛永六年(一六二九)まず久下(くげ)・天水(てんずい)間を掘り割り、同十年には荒川の流れを久下(熊谷市)で堰止めて南流させ旧荒川の名残川である和田吉野川に導いたのである。そして、さらに市の川の流路に導き、下流で入間川と合流せしめたが、その合流点は大宮市指扇付近であった。この結果、元荒川や綾瀬川流域では荒川の洪水被害が少なくなり新田開発が急速に進むが、逆に、新河道の沿岸一体は水量が増し水害常襲地域と化していったのである。つまり江戸および埼玉南東部一体を洪水から守るための荒川の瀬替えは、新たな水害地の発生という大きな矛盾を生んだのである。
この影響をもろに受けたのが古名村(吉見町大字古名)である。『新記』には「当村古八横見村卜号セシガ洪水ニカカリー旦退居セシヲ、丸貫村ヨリ来テ再ビ開墾シ村名ヲ古名卜改ムルト云」と記されている。正保改定図には横見、その開墾地の一部は松山衆の知行地となり、江戸初期には耕地があった。そして、おそらく寛永~正保期(一六二四~一六四八)の間に洪水のために退転し、その後水除堤ができ、延宝六年(一六七八)の「下砂村御縄打帳」からして、延宝期までに再び開墾されたものと思われる。このように、一村を退転に追いやるほどの洪水を経験した対岸の吉見領や川島領の村々では、荒川の瀬替え以後、水魔から逃れるために大囲堤(おおがこいづつみ)の築造が緊急課題となったのである。
吉見領では、瀬替え以後直ちに(寛永十一年からという説もある)、伊奈忠治により五か年の歳月をもって、大里郡小八ツ林村(大里村)から吉見領荒子村まで、さらに引き続き市の川筋から吉見丘陵東麓の和名村に至る、さながら吉見領を一周する大堤防を築いたのである。また、その下流の川島領でも、川越藩主松平信綱により大囲堤が築造されたのである。この結果、水の流路は狭められ大宮台地と大囲堤に挟まれた荒川流域の堤外地は、年中行事のように襲ってくる水魔との苦闘を強いられることになったのである。
このような悪条件の堤外地は、近隣の村々の入会秣場としての利用が中心であり、上沼秣場もその一つであった。しかし、小農が一般的に成立してくる寛文~延宝期(一六六一~一六八一)には、一方で秣場の開発が顕著になってくる。そして、秣場の開発進行は、同時に秣場をめぐる境界論争などが頻発する。市域においても、元禄十年(一六九七)の裁許状に見られるような、秣場をめぐる争いが現れてくるのもこの時期からである。また、江戸時代の新田開発の第二の隆盛期である元禄期(一六八八~一七〇四)から享保~延享期(一七一六~一七四八)にかけては、幕府は年貢増徴策の一環として、これまでの本田保護のため秣場を温存する施策から、大きく転換して低湿地の開発を積極的に進めていった時期である。

<< 前のページに戻る