北本市史 通史編 近世

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第2章 村落と農民

第2節 秣場と論争

2 享保期の荒川通りの秣場開発

入会秣場の開発
荒川流域に広がる広大な流作場は、寛永度の瀬替え以後は荒川本流の水をもろに受けることになり、水害常襲地域と化したわけであるが、一方で対岸の大囲堤(おおがこいづつみ)の築造にあたって、遊水池として他の河川には見られないほどの広大な堤外地を残したことは、人々の開発意欲をかき立てずにはおかなかった。もともと荒川の肥沃な沖積土によって土地は肥え、洪水時に上流より運んで沿岸に堆積する肥沃な微粒子(=いごみ)は、効率的な金肥の利用されることがなかった江戸時代前期にあってはかけがえのない肥料源であった。したがって、台地上の市域の村々から見ると一望の低地・荒地に見えたこの地の開発は、人々にとって大きな危険を伴う反面、また大きな魅力でもあり、開発意欲の高まりとともに比較的早い時期から開発の手が加えられていったものと思われる。このことは、本村の請負によって開発し、その本村の名を新田の名に冠した荒井新田や、高尾村の荒井門太郎という者の開墾であるという荒井新田の存在などからもいえるであろう。
このようにして、近隣の村々の入会秣場として利用されていた堤外地が次第に開発され、秣場論争が引きおこされてきたのである。にもかかわらず、享保期(一七一六~三六)にはいると新田開発を財政再建の一つの柱にしようとする幕府は、秣場の開発と高入れを強力に推進し年貢増徴を図ったのであり、農民たちは水と闘いながらさらに年貢増徴という二重・三重の苦しみを負うことになったのである。

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