北本市史 通史編 近世
第2章 村落と農民
第2節 秣場と論争
3 市域の開発
分家近世には血縁関係のものが家名と家産とを分かって別に家をたてる分家が広く見られたことは周知のことであるが、このことを墓石が如実に示してくれるので紹介したい。市域には一家一門だけの墓地が数か所ある。荒井の久保堂の新井家墓地と下石戸上の吉田家墓地について分化の様子を示すと次の通りである。
新井家墓地は九家の墓地から成っているが、八家が明治以前に遡(さかのぼ)る。八家の最古の墓碑紀年銘は天正年間で、以下寛文元年(一六六一)が二家、正徳五年(一七一五)、享保三年(一七一八)、同七年、明和二年(一七六五)、天明二年(一七八二)となっている。このことから江戸時代の最後の分家は十八世紀の半ばごろで、以後一〇〇年以上は分家を出していなかったことが分かる。
表24 無量寿院の墓石一覧
(『北本石造遺物所在目録Ⅰ~Ⅲ』より作成)
表25 阿観堂の墓石一覧
(『北本石造遺物所在目録Ⅰ~Ⅲ』より作成)
両家を通じていえることは、分家が集中的に出されたのは十七世紀の後半から一八世紀の初頭にかけての数十年間であったということができよう。
このほか、市域に古くから住みつき分家を多数出した姓を例示しておいた。宮内―大島、古市場―矢口、山中―小川、朝日―内田・柳井、中丸―小川・加藤・宮倉、本宿―岡野、高尾―新井・大畑・鯨井、荒井―新井・遠藤・滝瀬・深井・福島・矢部、石戸宿―高松・横田、下石戸上―岡村・諏訪・成井、下石戸下―大沢・小林・吉田