北本市史 通史編 近世

全般 >> 北本市史 >> 通史編 >> 近世

第2章 村落と農民

第1節 村落の推移

1 村の概況

下石戸下村       
前述のように石戸村が石戸町と下石戸村に分村し、さらに下石戸村が上・下に分村した。旗本牧野氏の知行地で、検地は寛文八年(一六六八)、持添新田があり寛政六年(一七九四)検地し幕府領となる。村高は『元禄郷帳』で三九七石余、以後はほとんど変わらなかった。小名に刑部谷があり、『吾妻鏡』に見える伊東刑部左衛門尉(ぎょうぶさえもんのじょう)祐頼が住んだ地と伝える。また、天正十八年(一五九〇)伊奈忠次知行宛行状に、牧野領として「石戸八幡原・そうしき(雑敷(ぞうしき)か)」と見える。荒井・高尾・石戸宿村と、秣場や荒川の河川敷の開発をめぐって論争が絶えなかった。鎮守は下石戸上村の氷川神社である。このことは、両村がもともと一村であったことの証左といえよう。寺院は天台宗池端山修福寺(川田谷村泉福寺末)・同安楽山大蔵寺(同末)があった。化政期の家数は八〇軒であった。主な物産に、米・大麦・小麦・陸稲・大豆・小豆・甘蒔・菜種・荏(えごま)・胡麻・芋・粟・薪・粗朶(そだ)などがあった。

<< 前のページに戻る