北本市史 通史編 近世

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第2章 村落と農民

第2節 秣場と論争

3 市域の開発

市域の概観
表26は市域の全寺院と廃寺跡および共同墓地の各戸の墓地中一番古い物故者の没年だけを抽出してまとめたものである。例えば深井五丁目の薬師堂墓地には墓石を通してみる限りでは一六五〇~一六七五年の二五年間に三人亡くなり墓石が建立されたが、この三基が最も古い。それに続く二五年間に墓石を建てた家が七軒ある。次の二五年間にはさらに三軒がこの檀家に加わってきている。したがって薬師堂の檀家は少なくとも一三軒になっていたことを物語る。
注 第一章第四節の市域の検地の分析から判るように、現実には、各村落にはもっと多くの農民が住んでいたことは容易に想像される。墓石を建立できるような本百姓のほかに、屋敷地も所持できない零細な百姓が少なくなく、この階層は墓石建立の余力はなかったと考えられる。

表26 市域の墓石一覧

(『北本石造遺物所在目録Ⅰ~Ⅲ』より作成)

以上ともかく、この墓石を通してみた家の起こりから、市域全般について、次のように概括することができよう。第一は開発の古さを市域の東西で比較するとその差はほとんどなく、中山道に沿う中央部がおくれて開発されている。第二は牧野讃岐守(まきのさぬきのかみ)の支配下に入る以前の天正・文禄期(一五七三~九六)からのいわば土豪的存在の草分けは一〇戸強を数える。それに続く準草分けはその五倍の六〇軒ぐらいであったと推定できる。その後近世的な分化が進行し出す。第三に十七世紀の後半の寛文・延宝期(一六六一~八ー)になると格段に戸数は増加し、村落はほぼ完成し、十八世紀に入ると開発は大幅に減速した。
ところで市域には寺院墓地ではなく、個人の屋敷内か近くの地にその家だけの墓地、いわば個人墓地とでも呼ぶベき墓地が五〇か所ほど存在している。その分布は図9の通りで、石戸宿の九丁(石戸宿一丁目)、下石戸上の下手(石戸八丁目)、下石戸下の台原とニッ家(ニッ家一~四丁目)に多い。このうち九丁とニッ家には秣場が置かれていた地域である。表27は四七戸の墓地中最古の紀年銘を表示したものである。これをみると九丁は十七世紀の末に他の地域は九丁よりは二〇~三〇年早く、概ね十七世紀の中葉に多くの農民が入村したことがわかる。下石戸下の台原とニッ家には寺院がなく、広く平地林におおわれ秣場が置かれたりして、市域の中では開発がおくれた地域であったことなどが個人墓地の多く置かれた理由と思われる。

図9 市域の個人墓地一覧

(『北本石造遺物所在目録Ⅰ~Ⅲ』より作成)

表27 市域の墓地の紀年銘一覧

(『北本石造遺物所在目録Ⅰ~Ⅲ』より作成)

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