北本市史 通史編 近世

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第2章 村落と農民

第3節 水利と土木

1 幕府の治水政策と河川管理

天正十八年(一五九〇)八月徳川家康は江戸へ入ると領国経営に着手した。入国当時の江戸はちいさな漁村で、東部から北部にかけては隅田川・利根川・荒川など大小の河川が多くあって、そのあたりは沖積低地が広がっていた。なかでも利根川・荒川の二大河川は水量も多く、ふるくから洪水によって周辺に被害をもたらした。
家康はこうした洪水から江戸を守ることと、生産基盤の確保から、大規模な治水工事に着手する必要があった。関東地方の治水工事は代官頭(後に関東郡代)伊奈忠次・忠治父子に負うところが多く、利根川・荒川の改修工事にも伊奈氏が関わっている。
利根川の治水工事は二度にわたって大改修が進められ、第一次は文禄三年(一五九四)会野川を新郷で締め切り、浅間川筋に付け替えられた。これによって会野川流域はじめ多くの地域で新田開発が可能になったが、庄内領が逆に洪水の被害を受けることになった。第二次の改修工事は元和元年(一六一五)から始められた。新川通および赤堀川の開削工事に始まり、最終的には新利根川(江戸川)の完成によって利根川は東側に流路を変えたのである。
一方、荒川は秩父山地に源を発し、県内のほぼ中央部を流れて江戸湾に流入するが、かつては元荒川が本流であった。荒川の治水工事はすでに戦国時代にもみられるが、徳川家康もまた江戸入府後、松平家忠をして北条堤を築かせ、さらに元和元年(一六一五)までには荒川六堰(石原、奈良、玉井、大麻生(おおあそう)、御正(みしよう)・万吉(まげち)、成田の堤堰)を設けるなど、積極的に治水工事を実地している。その後、寛永六年(一六二九)には流路の付け替えが行われた。つまり久下(熊谷市)で荒川を締め切って南を流れる和田吉野川へ付け替えて荒川本流とし、締め切られた久下から下流の荒川は元荒川となった。荒川の本流が変わったことで和田吉野川の水量は増加し、それによって髙尾・荒井・石戸に河岸が成立するのである。
荒川の付け替えによって、元荒川筋や綾瀬川筋では新田開発が盛んに行われるようになった。

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