北本市史 通史編 近世

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第2章 村落と農民

第3節 水利と土木

1 幕府の治水政策と河川管理

城ケ谷堤
城ケ谷堤は現在の桜堤に比定され、石戸宿村・下石戸上村・下石戸下村・高尾村・荒井村の五か村の入会地の田畑を荒川の水害から守る堤防であった。築堤の時期は不詳であるが、下石戸上村に残っている寛保三年(一七四三)の「下沼流作場五ケ村訳取替シ証文」(近世No.八五)によれば、すでにこの時期に城ケ谷堤の記載があり、圦樋(いりひ)・悪水路落堀があることがはっきりしている。

写真9 城ヶ谷堤

ところで、明治期に作成された迅速図によれば、この城ケ谷堤の位置は荒川の瀬が接近しており、荒川に面したこの地域はしばしば水害に襲われたことであろう。しかし、それは寛永六年(ニ八二九)と伝える荒川の瀬替えによって流量が増加してからのことであろうと思われる。このように考えれば、この堤の築堤の時期は少なくとも寛永六年から寛保三年まで間の時期と推定される。
弘化二年(ー八四五)の「字城ケ谷五ケ村入会圦樋伏替願書并出来届書控」(近世No.ー四三)によれば、この堤や圦樋等の修築は五か村の領主である牧野家の一部負担で行われて来たもので、この文書に記載されている修築の歴史をみると、明和三年(-七六六)、文化三年(一八〇六)、文政七年(ー八二四)にそれぞれ行われ、今回の弘化二年の工事実施となったわけである。このたびの修築の願書は、この年の二月、五か村のうちの石戸宿村・下石戸上村・下石戸下村の百姓代・組頭・名主の連名で、荒井村の名主徳太郎を総代として領主に提出され、受理された。普請完成までにほぼ半年間を要している。
そして同年四月にはこの工事の費用の負担割合を記した「城ケ谷圦樋伏替勘定割合帳」(近世No.一四四)が作成された。
まず、その資料によって工事の入用割合(使途)をみると、次のようになっている。
金二分
石や(石屋)茶代
銀二五匁
モッコウカツギボウ
三七二文
明俵一八俵
銀五六匁
甚之丞 江戸之御屋敷様江仕様帳差出し入用
銀五六匁
弥兵衛 同
金二分
 
銀一三七匁
 
銭三七二文
 
 
為金二両三分と銭八〇八文
 
銭ニシテー九貫二三二文
 
丁ニシテー八貫四六四文

前記の入用を先の五か村に高ー〇〇石について丁一貫ニーニ文の割りで割り付けた。なお、「丁」とは丁銭あるいは長銭と書き、紐に通した銭九六文で銭ー〇〇文とした。
次に村々への割り当てをみると次のようになる。
高尾村      四五八石四斗  銭五貫七八四文
荒井村      三〇三石八斗  〃三貫八三四文
下石戸上村    二八八石八斗  〃三貫六四四文
石戸宿村     一七五石五斗  〃二貫二ニ五文
下石戸下村    二九七石    〃三貫七四八文
合計 五か村総高 一五二三石五斗 〃ー九貫二三五文

これをみると、五か村の負担は高尾村が最高で、荒井村・下石戸下村・下石戸上村・石戸宿村の順であるが、これは代官領を除いた牧野氏知行高を基準として賦課されていた。
そして、この年の六月には、先の村々の名主が宰領(さいりょう)を務めて無事に圦樋の伏替が完了し、御在役を務めている下石戸上村の名主吉田徳太郎の検分を経て地元に引き渡された。
ただし、この入用の内容をみると、材料費・人夫賃などは見られず、伏替普請の費用の一部と思われる。
そうした費用については、参考までに文政十年(ー八二七)の「字城ケ谷堤悪水吐圦樋御普請仕様帳」(近世No.一四五)をみることにしたい。これによると、樋の規模は、長さ七間半(一三・五メートル)・内法の高さ三尺(〇・九メートル)、横四尺(一・ニメ-トル)であることがわかる。そして、この普請に要する材木は尺メ二一本余(ただし板幅七寸―ニーセンチメートル)、杉丸太三七本、釘は四寸(ー二センチメートル)と五寸(一五センチメートル)で二〇〇本(鉄三貫目―ーー・二五キログラム)、大工はのべ六四人三分手間(但し新板ー坪に付三人掛)、木挽は六二通分(但し金一両に付四〇通挽)となり、総費用は、一八両となっている。こうした費用も村々で分担したであろうが、その詳細は不詳である。
いずれにしても、このような普請を行うことによって、荒川の洪水による浸水と堤防の内側の湛水による被害を防ぐことができたのである。

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