北本市史 通史編 近世

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第2章 村落と農民

第3節 水利と土木

1 幕府の治水政策と河川管理

備前堤     
伊奈忠次は綾瀬川流域の低湿地を赤堀川の水害から守るために、小針領家(桶川市)から高虫(蓮田市)に至るまで堤を築いた。この堤が備前堤である。忠次は関東郡代の職にあり備前守を名乗ったのでその名が付けられたのであろう。前述のように徳川氏はその拠城江戸を洪水から守るためと、低地の開発のために関東の河川の改修工事や流路の付け替えを積極的に行った。備前堤築堤もその一環であったが、築堤の時期については、戦国時代・慶長年間・寛永年間の三説があり、現在では慶長年間(一五九六~一六一五)とする見解が有力である。堤の規模も長さ三二五間、馬踏幅二間、根置七間三尺、高さ九尺とするもの(近世No.一四六の解説)や、長さ五〇〇間、馬踏二間、根置六間とするなど(『県史通史編三』)、これもまた統一見解がない。特に規模については築堤当時と、その後の補修などによって差が生じることもある。備前堤の築堤によって堤下の低地(下郷又は水下)の村々では、新田開発が可能になって成果も見られたが、堤上の地域(上郷又は水上)ではそれによって水落が悪くなるなど新たな問題も発生している。
堤をめぐっての紛争がいつごろから発生したかは不詳であるが、すでに寛保年間(一七四一~三)に普請願いをし、宝暦年間(一七五ー~六三)新圦伏込(しんいりふせこ)み、明和三年(一七六六)の出入り、安永年間(一七七二・八〇)の堤の高さ改めなどがある(『桶川市史四』No.一二三・一ニ五)。それらの経過を記した史料がないので詳細はわからないが、享和二年(ー八〇二)八月には上郷二四か村が小針領家村を相手どり訴える紛争を生じている(近世No.一四六)。
それによれば、元荒川付二四か村は少量の雨でも悪水(排水)が溜まり、年々水が溢れるようになったので、内郷に準じて土手を築くよう命ぜられた。鴻巣の宮地堤は高さなどの定杭(じょうぐい)があってそれに手を加えることができないが、備前堤には定杭がないために小針領家村では勝手に手を加えている。上郷では困るので掛け合ったが相手にしてもらえず一向に埒(らち)があかない。然るに六月の大出水の折り、小針領家村では下流への被害を防止するために、堤上に土俵を置いて高くし、杭木打ちの筵張(むしろはり)をしたので、上郷では水が引けず耕地に水腐ができ困っている。そのため小針領家村を吟味して以前の通りに、上置した土を取り払って欲しいというのである。つまり、堤によって水上では水の引きが悪くなり、水下では被害を防ぐため土を盛るということが訴状の主旨で、これが備前堤をめぐる紛争の争点であった。

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